青木 琴美(あおき ことみ)
僕は妹に恋をする(ぼくはいもうとにこいをする)
第10巻評価:★★☆(5点)
総合評価:★★(4点)
自分を責める咲を残し、頼は郁をつれて家を飛び出した。海辺にある矢野家の別荘でふたりだけの生活を楽しむ頼と郁だったが、郁を両親の元に返す覚悟を決めた頼は家に戻ることに。そして、頼は郁と別れる決心をして家を出るが…!?
簡潔完結感想文
- 兄妹だけの束の間の駆け落ち体験。教会で神に一つの誓約をして、家に帰ることを提案する頼。
- 倒れた母のもとに駆け寄る郁。だがそこで感じたのは痩せこけた母の体躯と自分の罪の重さ。
- 家庭という楽園から自らの意思で追放処分を受ける頼。郁を守るために。運命に任せるために。
いつでも「かみさま が見てる…(『2巻』)」。原罪の重さに さいなまれる 最終10巻。
いよいよ最終巻です。
繰り返しになりますが、中盤(遠距離恋愛編)が全く必要ない。
それは再読して一層強くなった思い。
だが再読して変わったのは本書の評価。
もしかして、唖然としてしまった表面上の過激な内容(双子の兄妹間での近親相姦や、挿まれる性描写)よりも、
もう少し別の角度から見たら、本書は結構考えられた構図や配置なんじゃないかと思えてきたのだ。
『9巻』では主人公の頼(より)、遺伝子による操り人形説を唱えましたが、
この『10巻』で唱えるのは、頼 キリスト説です。
少し怒られそうな内容ですが、解釈の一つとして読んでください。
兄妹で結ばれた者たちは原罪を負って、楽園を追放される運命にある。
それは旧約聖書にも記載のあること。
同じく兄妹間で関係を持ったことを母親から咎められ、家から出た頼と郁(いく)の双子の兄妹。
2人が頼ったのは お金持ちの同級生・矢野(やの)。
彼の家が所有する海辺の別荘は、まるで2人にとって快適な楽園のよう。
2人だけで過ごす時間は夢のように甘美で心安らぐ世界。
だが両親が結婚式を挙げた海辺の教会で頼が神に語ること。
それはこれまでの罪、そしてその罪を背負うのは自分だという決意だった。
頼は、何不自由なく育ててくれた温かな家族、そここそが楽園だと考える。
郁だけでも楽園に戻すこと。
自分は追放される覚悟を持って、束の間の駆け落ち生活に終止符を打ち、もう一度、楽園に戻る…。
新約聖書でいえば、父親の違う双子を宿すという確率的には奇跡を体現してくれた母は聖母マリアか。
妻の受胎を あるがままに許容する父はマリアの夫・ヨセフ。
そして一人で十字架を背負った頼はキリストに重なるか。
また、そんな頼を追って10年にも及ぶ巡礼の旅をするのは頼を信奉する郁。
この中で一番しっくりくるのは、頼 キリスト説ではなく、父のヨセフ説である。
同じ日に自分以外の男と肌を重ねた妻を許すことや、
兄妹間で禁忌の関係を結んだ子供たちを初めて知っても責めなかったという不自然な言動も一気に解消される気がする。
もしかして、本書は なかなか考えられた配置なのか?と思わざるを得ません。
まぁ、アダムとイブとキリストを同列に並べている時点で説は破綻してるのですが…。
そういえば巧言で人を操る頼には『DEATH NOTE』の夜神月みたいな活躍を期待していた時期もありましたが、
この説を採ると、頼は月(ライト)とは別の意味で「新世界の神にな」ったわけですね。
『10巻』で一番好きなシーンは、
2人だけの海辺の別荘から家に帰ることを頑なに拒否していた郁が、
母が倒れた事実を知ると、迷わず帰宅し、母と抱擁するシーン。
そこで痩せた母の肉体に愕然とし、
そして自分が頼に夢中で見えていなかった現実があったことを知るシーンだ。
このシーン以降、郁は周囲の人々の優しさに気づくことが多い。
それは自分を置いて家から出て行った頼に対しても…。
束の間の駆け落ちの終盤、
郁よりは常識と知性を持ち合わせている頼は厳しい現実も理解しており、
郁に2人だけでは生きていけない現状を語っていた。
郁にとってそれは目を背けたくなる事実で、
理想を語らず現実を押し付ける頼を責めたりもした。
だが、現実に母が倒れると家に帰ることを躊躇せず、
傷つけた人のことを初めて理解した。
そして頼が一人で家から出ていくことで、離れることで郁を守ったということを知った。
郁が家族という楽園すら失うことのないように。
犯した罪は自分一人で抱え込んで。
そんな郁の絶望と救いで彼女は成長する。
自分自身の過失に初めて向き合うこと、それが彼女の成長に繋がったのかな。
これまでの郁は幼く描かれ過ぎており、大事な場面で彼女の感情や思考を一切描かないことに不満を持っていましたが、
この成長のための前振りだったのかなと理解することが出来た。
郁があまりに幼過ぎて、双子の妹には思えず、
年長の頼が、年少の郁を言葉巧みに誘導して性的暴行を加える物語にも読めてしまっていた。
失われた双子という対称性を取り戻すことが、頼と再び会うための条件なのかもしれない。
彼女の成長の速度はすさまじく、『ビリギャル』というタイトルで書籍化できそうな変貌ぶりだ。
10年間、矢野とは友人関係のままでいる郁。
郁が異父兄弟なら、もう一人の妹、異母兄弟である森 杏沙(もり あずさ)のその後も知りたかったなぁ。
あまりにも頼を中心とした物語になっていて広がりに欠く。
また頼側の絶望と成長も語られる。
頼は郁と精神的に肉体的に結ばれたことで、
郁に最高の幸せを与えてあげたいのに絶対にそれが叶わない男になった。
頼にとって妹に愛されるという無上の喜びは、絶望の入り口なのだ。
今回の駆け落ちで頼は、子供だった(もしくは性欲や煩悩まみれだった)自分が出来なかった決断を果たす。
それが郁と距離を置くこと。
郁は楽園に残すこと。
男子、三日 会わざれば刮目して見よ、と言いますが、
頼もこの1年で成長したということでしょう。
身勝手な男だと思う部分も多々ありましたが…。
頼は作者が一番理想とする男なんだろうなぁ、と思うことが頻繁にありましたね。
一番好きな顔だから頼によく似た顔の男たちがいっぱい登場するのだろう…。
だからこそ頼に格好付けさせる漫画に成り果てている面もある。
10年後のラストも作者が考える最も格好良い職業、海外の弁護士になっているような気がする。
頼には出国すら難しそうですが。
頼のためなら、そんな問題はお構いなしなのは作者も郁も同じ。
そうなると郁=作者説も出てきますね。
郁が幼く可愛いのは、彼女もまた理想を詰め込まれたからか。
作品の発表が2004年前後で、ケータイ小説が流行し始めた頃だろうか。
だから大雑把で過酷な設定、悲恋や生々しい性描写などが盛り込まれたのだろうかと推測する。
もちろん小学館の「少女コミック」末期の、行き過ぎた性描写の推進も理由だろうが。
本書がケータイ小説ならば、郁が妊娠が分かって幕を閉じるのかもしれないが、
親たちと違って、避妊だけはしていた(と思われる)頼。
『10巻』での海辺の別荘では相当怪しいが、妊娠は背負うものがまた出来てしまうので さすがに回避したのか。
それに「来世」に託して転生した親世代とは違って(『9巻』での自説。転生説をお読みください)、
頼と郁は自分たちが生きている間に再び会うことがあれば、それは運命だという、運命論を信じているのだ。
そういえば私が推す もう一つの説。頼の中の実の父・森 裕吾(もり ゆうご)の遺伝子が頼を操作している操り人形説。
主に郁に欲情するスイッチとなる裕吾の遺伝子だが、
裕吾の精神が安定し、そして裕吾から物理的な距離を取れば支配から免れる(と勝手に私が思ってる)。
なので、この10年で完全に裕吾の遺伝子の支配下を逃れて、本当の結城頼になった頼。
そこで再会する2人。
ある意味で自分に生まれ変わった頼と、人が変わったように成長した郁。
そして
改めて僕は妹に恋をする。