桃森 ミヨシ・鉄骨 サロ(とうもり ミヨシ・てっこつ サロ)
菜の花の彼(ーナノカノカレー)
第05巻評価:★★★★(8点)
総合評価:★★★☆(7点)
傷つけることでしか、菜乃花に関われなかった─。今までの自分を悔やむ鷹人。菜乃花と鷹人がキスしていたことを知り、傷つきながら、迷いながら菜乃花を思う隼太。隼太に会うことができず、自分を責めてしまう菜乃花。あなたが好き─。素直に思いを伝えられずに傷つく3人。苦しい、切ない、恋。 【同時収録】番外編 とくべつな日
簡潔完結感想文
清濁、陰陽が混じり合って太極図すら見えてくる 5巻。
菜乃花(なのか)・隼太(はやた)・鷹人(たかと)、この3人の心情や、その心の移り変わりを表すエピソードが秀逸すぎて感動している。特に『5巻』では過去と現在、その2つの影響や反射を強く感じられた。ここまで骨太な物語になったのは、今回から共著者となった鉄骨さんの影響なのだろうか。
『4巻』の花火大会の騒動から、彼らは3人それぞれに自分の過去と現在を見つめ直すことになったと言える。『5巻』は『4巻』の余波と言ってもいい。
菜乃花は過去の経験が傷つけられる覚悟を持った行動に繋がっており、鷹人は今の発見が過去の言動を反省する契機となった。そして隼太は過去と今の言動不一致が自分の中にあるからこそ葛藤が生まれている。
時系列順で言うと最初に花火大会の影響を受けるのは鷹人である。菜乃花を暴漢から守った彼は間違いなくヒーローであり、そして無傷で彼女を守りきった という自信が彼を素直にならせようとしていた。だが その菜乃花の浴衣で見えない部分に痣(あざ)があることが発覚する。それは鷹人が隼太への対抗意識から菜乃花を強く掴んだことによって出来た痣。彼女を守ると誓った自分が彼女に声にならない痛みを与え、痕を残したことに鷹人は衝撃を受ける。おそらく それはボロボロの身体的ダメージよりも大きかっただろう。
そこから鷹人は これまでも(主に中学時代の交際期間に)菜乃花に見えない部分、心に痣をつけていたのではないかと反省する。今回、初めて菜乃花に身体的な痣が出来、鷹人がそれを目撃したから鷹人の過去への連想が生まれた。
ここが鷹人にとって転機になる。告白の機会こそ逃すことになったが、これ以降の鷹人は菜乃花にも心があることを念頭に彼女に接しているように見える。そして自分の位置も過去の亡霊ではなく、今の菜乃花に影響を与えうる存在になろうと変えていく。菜乃花のトラウマで、過去の亡霊のような鷹人だったが、今を生きる一人の未熟な青年としての自覚が芽生えてきたように思う。
続いては隼太である。彼も鷹人と同じく表面上のダメージ以上に内面のダメージが大きいのではないかと推測される。
表面上のダメージは菜乃花を守る役目を鷹人が担ったこと、そして彼の口から聞かされた菜乃花と彼のキスのこと。その2つが隼太から自信を喪失させ、菜乃花と向き合う勇気を奪ったのは確かだろう。だから隼太は菜乃花の前に姿を現さないし、電話にも出ない。
ただ隼太のダメージは彼の体内で何度も反射することで、累積ダメージとなり心を壊していったように思う。1つは菜乃花たちとの年齢差の痛感だろう。たった1年の差ではあるが、どれだけ速く走っても人は光を時間を超えられない。菜乃花の中には鷹人との過去があり、そして出会った後も菜乃花が鷹人に助けられた実例が2つもある。それを改変することも出来ず、焦燥や苛立ちばかりが自分の中に生まれる。この黒い感情は隼太の中に無かったもので、それが生まれたこと自体にも彼は戸惑っているだろう。
そして もう1つ隼太が苦しむのが自分の言動不一致ではないか。花火大会の夜、なぜか菜乃花は鷹人と一緒にいた、そして2人にはキスをした事実があった。それだけで隼太は菜乃花を浮気認定することができ、本来の潔癖な隼太なら それだけで菜乃花は「無し」になる。浮気した元カノにしたように、隼太は完全シャットアウトを選択するような局面である。だが隼太は それが出来ない。それは菜乃花の存在の大きさが原因だろう。
過去に出来たことが今は出来ない。その自分の変化に隼太は苦しめられ続け、楽になれない。袋小路に入った悩みを吐き出すように、隼太はボールを壁に打ち込み続ける。もう彼には戻るべきコートも居場所も無いのに、である。
ラストに変わるのは菜乃花である。最終盤に菜乃花は全速力で隼太を探し回る。しかし それは隼太から終わりの言葉を聞くためだった。
例え どんな言葉が隼太の口から発せられようと菜乃花は それを全部 受け止める覚悟がある。そうして本人から直接 発せられた言葉でないと価値も意味もないことを菜乃花は知っている。中学時代の鷹人との交際は間接的な言葉によって終わったと錯覚し、自然消滅した。だが 何となく消えたものは なんとなくでは終わらないことを菜乃花は思い知った。鷹人との交際はトラウマになり、そして菜乃花の中で内罰的な意識を育て続けてしまった。
その経験があるから、その傷を癒してくれたのは他ならぬ隼太だから、菜乃花は彼の言葉を聞きたくて走る。みっともないほど汗だくになりながらも、菜乃花は自分が隼太に会わなければならないことを痛感している。この過去の経験が今の菜乃花を走らせているという構造が大好きだ。隼太と話すことで新しい傷が出来るかもしれないが、それを引き受ける覚悟が菜乃花にはある。過去の経験が同じ失敗を繰り返さないこと、それを人は成長と呼ぶはずだ。そんな確かな成長が見られる点に私は喜びを感じた。
そして隼太の居場所を突き止める菜乃花。それは実に2巻以上ぶりの 彼らの再会であった。1巻を一つの大きなまとまりとして構成して、次の巻を読みたくなる展開を用意しているのが素晴らしい。本書の場合、告白未遂とかキス未遂など、次の巻の冒頭で巻跨ぎの「引き」を否定しないであろう という信頼もある。重い球をしっかりと投げ、しっかりと受け止める そんな構造の重厚さを感じられる点も評価のポイントだ。
花火大会の夜、菜乃花だけが3人が揃ったことを知らない。そして菜乃花は鷹人の酷い怪我にパニックになり、隼太からの着信履歴を認識せず救急車の要請をする。それだけ菜乃花は動揺していたのだろうが、その場面を客観視する隼太は菜乃花と鷹人の密会から疑う。これは隼太が最も嫌う、元カノと別れる原因となった「浮気」なのか。少なくとも彼らはキスをしていることが倒れる前の鷹人の最後の叫びで知らされた。
いつもの隼太なら相手が鷹人であれ、菜乃花のためにも、彼の搬送の手伝いをしただろう。しかし菜乃花が鷹人といる事実、語られた秘密に彼の足は動かない。花火大会での告白に浮足立っていた分、隼太は地獄への落下距離が大きくなったと言える。そして隼太は自分が善人ではなかったことに苦しみ始める。
花火大会の夜が明け、少し冷静さを取り戻した菜乃花は隼太からの着信に ようやく気づく。だが折り返しの電話に隼太は出ない。これは『2巻』で菜乃花が鷹人にキスをされ、秘密が生まれた時の対応に似ている。おそらく今の自分は自分の感情に折り合いがついておらず相手の声を受け止める自信がないからだろう。
菜乃花は差し入れをして隼太を心を寄せていること、心配していることを間接的に伝えたかったが、隼太の異変を感じ取った元カノでありマネージャーの女子生徒によって、今後の差し入れを拒絶される。もし差し入れが隼太に届いていたら彼の悩みは深くならなかったかもしれない。隼太の周囲の人間関係が菜乃花に間接的に影響を与えているという部分にバタフライエフェクトっぽさを感じる。
隼太は平常心を失い、バレーボール部の練習も歯車が狂い、チームメイトとの連携も取れなくなる。彼の焦燥の原因は男としての敗北感もあるだろう。菜乃花を恐怖から守れなかったこと、そして鷹人は自分が入ることが出来ない過去を持っていること。どうしても越えられない年齢の差が焦燥感を増幅させる。
だが自分への苛立ち、チームメイトの諦念が隼太の新たな一面を開花させる。それがアタッカーとしての才能だった。これまでは その性格通り、周囲に気持ちよくボールを打ってもらうため、絶妙な位置にボールを上げるセッターのポジションだったが、エゴに目覚めた隼太は その優れた身体能力を怒りや苛立ちをパワーに変換し、ボールを打ち込む。このポジションの変化は隼太の心境の変化とマッチしていて秀逸だ。
だが隼太のアタックはライン内に入らず、戦力にならない。そして司令塔としてもメンタルが不安定だからチームメイトとの協調が出来ない。そんな自分の現状を冷静に見つめた隼太はレギュラーからの降格を自ら志願する。
そうして一層 荒廃した隼太の精神は一つのミスを犯す。菜乃花からの着信に出ないと決めていたのに、通話ボタンを押してしまい、菜乃花との会話が始まってしまう。菜乃花は ありがた迷惑になっていた差し入れの件を謝罪するが、隼太はマネージャーの差し入れ拒絶を知らない。だから隼太は菜乃花が心変わりして、自分には差し入れを作らなくなったと悪い方向に推理してしまう。
それでも隼太は菜乃花のことを誰よりも好きだから彼女を好きという気持ちを手放せない。隼太の考えでは菜乃花は二股をしているとも考えられ、隼太は そういう人が生理的に無理だった。現に隼太を試すために他の男に走った元カノには隼太の潔癖な性格が、絶対の拒絶の意思を見せた。だが隼太は同じことを菜乃花に言えない。言えないから、気持ちを無くせないから隼太は苦しむ。この、希望は無いのに好きという気持ちを終わらせられない苦しみは、隼太は鷹人に共通する感情となっていく。
そういう意味では菜乃花は男を狂わせる「ファムファタル」のような存在なのか。菜乃花にとっては恋愛は いつまでも初心者で上手くいかないことが多いのだろうけど、男たちは見たくなかった自分の弱さや醜さに動揺して菜乃花以上に苦しんでいるように見える。
隼太が抜けたバレーボール部は、隼太の不調時以上に噛み合わなくなる。
そんな時、隼太の友人はマネージャーが浮気に走って隼太を試したと言うのを聞く。すぐに彼女は嘘だと撤回するが、友人は自分の隼太への敵対心が そもそも間違った根拠から発生している可能性を考える。隼太に連絡しても出ず、そこで彼が頼ったのは部活の先輩で、鷹人の友人でもある健介。健介は隼太が河川敷でアタックの練習を繰り返しているのを見ていたため、隼太に何かあったと想像する。
だが恐らく隼太は電話に出ないと直感し、目の前にいた鷹人に電話を借りて菜乃花に連絡を入れる。菜乃花にとって隼太の部活内での話は寝耳に水で、差し入れ問題が関係しているのかと混乱する。花火大会以降、隼太に異変が起きたということを確認した健介は、鷹人に菜乃花と話すように促す。そこで鷹人は菜乃花に、花火大会の日、隼太が来ており、鷹人とのキスの秘密を彼が知ったことを伝える。
鷹人が そうしたのは、自分が「秘密」や「過去」の中でしか生きられないことを終わらせたかったから。隼太への秘密の暴露は、彼への宣戦布告でもあった。
しかし菜乃花にとって それは恋愛の死亡宣告だった。菜乃花は隼太の潔癖な所を知っている。だからこそキスの事実を隠そうとして破局を回避してきたのに その秘密を知られた。
それでも菜乃花は隼太に会いに中学校まで走る。嫌われるかもしれない、終わるかもしれないけれど、汗を流して全速力で彼に会おうとする。
この場面で菜乃花はマネージャーが1話で別れ話をしていた隼太の元カノだと初めて認識する。そして ここで2人の隼太への理解度に差があることが表現されているのが面白かった。元カノは隼太に好きを求め続けた。言葉で確かめ、そして浮気で確かめようとした。それは彼女が自分に自信がなかったからだろう。そして隼太の言葉を信じられなかったからだろう。
対して菜乃花は これまで隼太の気持ちを一度も確かめていない。だからこそ両片想いのような状態が続き、そして簡単に不安になる。だが それは菜乃花が敢えてしなかったことでもあった。隼太の優しさを知っているからこそ、隼太は自分が求める答えを提示してくれることも理解していた。菜乃花が欲しいのは そういう返答ではなくて、隼太が心から自分から好きだと言ってくれる発信で、菜乃花は それを待っていた。そして本来なら それは花火大会の日に成就するはずだった。
あの花火大会が3人にとって運命の日であることは、まばゆい光に遅れて聞こえてくる音のように、時間差で認識されることであった…。