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本物の陰キャと、陰キャという言葉の陰に逃げ込もうとしているだけの私。『蹴りたい背中』

蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

  • 作者:綿矢 りさ
  • 発売日: 2007/04/05
  • メディア: ペーパーバック
蹴りたい背中 (河出文庫)

蹴りたい背中 (河出文庫)

第130回芥川賞受賞作品。高校に入ったばかりの“にな川”と“ハツ”はクラスの余り者同士。やがてハツは、あるアイドルに夢中の蜷川の存在が気になってゆく……いびつな友情? それとも臆病な恋!? 不器用さゆえに孤独な二人の関係を描く、待望の文藝賞受賞第一作。

なら言える、「陰キャ小説」だと。

でも、それは今だから言えること。

本書が発表された2003年にはそんな言葉を世の中は認知していなかった。
(存在も しなかったかもしれない)
しかし それなのに本書が紛れもない「陰キャ小説」であるところが、本書の凄いところなのではないか。

まだ世間が名付けられない、カテゴライズすら されていない特性に目をつけて、
それを物語の中心に据えたこと、それだけで本書は価値がある。

2021年に読んだ人、特に今の高校生たちが、違和感なく、
むしろ登場人物たちの造形を、
当たり前のように感じられることが、本書の恐ろしさだ。
まるで、この本に世間が引き寄せられていったのではないか、とすら感じる。

10年後に市民権を得て、15年後には当たり前に自分から自称するようになった概念を、
2003年の時点において鮮烈に描き出している。
そんな予言書のような先見性が、怖い。


場人物たちへのキャラ付けは、主人公の長谷川(はせがわ)と、
結果的に彼女が背中を蹴りたくなる男子生徒・にな川(にながわ)に大きな違いをもたらす。

私はここに本物と偽物の差を感じた。

にな川は正真正銘の「陰キャ」である。
しかし 多分、今の時代にあっても彼は自分が陰キャであることを意識しないかもしれない。
本物は、そこにいるだけで本物なのだ。

一方で、長谷川は偽物だ。

彼女は陰キャというよりも、友情ニート・友情 燃え尽き症候群が適当だろうか。

中学時代の経験から高校では誰とも群れないことを選んだ。
そして群れることで傷をなめ合っている人間を見下すことを選んだ。

だが彼女は、にな川のように完全に独立した存在には なれていない。

その証拠に、解説の斎藤美奈子さんが指摘する通り、彼女の五感は常に動いている。

教室や、学校の様々な空間の中で何が起きているのか常にセンサーを働かせている。
だから、その聴覚が察知する音を、言語として捉える。

見下すことにした生徒たちの会話も しっかり言葉として聞いて、
彼らが時々 放つ、奇跡みたいに おもしろいこと に笑わないように努力をしている。

もっとも、彼女が周囲の音を拾い集めるのは警戒心からだろう。
小動物が視覚や聴覚を発達させるように、彼女は常に何かを警戒している。
自分への悪意か、クラス全体の空気の流れか。

何にせよ、言葉を聞き取っている時点で彼女は無我の境地に達していない。

彼女は何かを悟ったように切り捨てているように見えて、何も悟っていない。
そして それは彼女自身が痛いほど理解しているはずだ。
家でも学校のことを考えるなど、煩悩が捨てきれていない証拠だ。

そして きっと逆に にな川の感覚を文章に起こせば、何の音も捉えていないだろう。


書は、人として、より高みにいる にな川への長谷川の師弟愛を描いているのだろうか、と考えた。

徹底的に世界と隔絶している孤絶の師匠・にな川への尊敬、嫉妬。
そして炙り出される自分の矮小性と、逆恨み。

自分にとって様々な感情を揺り起こす存在となった にな川に対し、
にな川にとって ほぼ無価値に等しい自分。

本物に近づこうとするが、近づけば近づくだけ本物の狂気と、
そうはなれない偽物の自分の繕ったキャラが露呈していくだけ。

これは偉大なる師匠を前にして、
師と共に行動をしても、修行を重ねても、禅問答で師匠に否定される弟子のようである。

そんな愛憎 相半ばする師匠に自分の存在を認めさせたくて、
長谷川が採る手段が「蹴ること」なのかもしれない。

機会が巡ってくるたびに、その背中を蹴って、
外界から隔絶された師匠を俗世に蹴落としたいのかもしれない。

そこには偶像としてのアイドルではない、
肉体を持った自分がいること、それを信奉者の師匠に痛覚をもって理解させる。

本物の「陰キャ」は物語に宗教的構図すら想起させるのかもしれない。


終幕の続きはどうなっていくのだろうか。

偶像の降臨を目の前で見た師匠は、これ以上ないほど取り乱した。
そのことが師匠の目を覚まさせ、自分を蹴る足を、足の持ち主に意識を移すのだろうか。

それとも、修行が不足する自分を反省し、一層、偶像崇拝に没頭するのだろうか。

なんせ相手は本物である。
五感は遮断され、俗世の感情など とうに捨てているかもしれない。


にしても斎藤美奈子さんの解説が素晴らし過ぎて、もはや書くことがない。
こうやって五感を研ぎ澄ませて小説を読み、独自の視点で感想を書きたいものです。


綿矢 りさわたや      蹴りたい背中け     せなか  読了日:2021年01月02日