小さなレコード店や製函工場で、時代の波に取り残されてなお、使い慣れた旧式の道具たちと血を通わすようにして生きる雪沼の人々。廃業の日、無人のボウリング場にひょっこり現れたカップルに、最後のゲームをプレゼントしようと思い立つ店主を描く佳品「スタンス・ドット」をはじめ、山あいの寂びた町の日々の移ろいのなかに、それぞれの人生の甘苦を映しだす川端賞・谷崎賞受賞の傑作連作小説。
『熊の敷石』で好きになった堀江さんだが、本書で作品を読むのが惜しいぐらい特別な作家さんになった。良書には隙が無いが、まず何といっても題名がいい。限定的でありながら広がりを感じさせる題名である。秀逸な題名は多くのパロディを生む宿命を持つが、本書もその素晴らしさゆえに「××とその周辺」という言葉を無限に増殖させていく気がする。
本書の登場人物たちは皆「〜さん」と書かれているが、それはもう登場人物たちがさん付けして呼ぶのが相応しい人々だからである。登場人物が皆、それなりに歳を重ねているという事もあるが、一言でいえば何よりも誠実なのである。彼らは何かしらの店、工場、教室などを開いているのだが(あっ、最後の一編だけ違うのか。住んでいないから?)、彼らは自分の仕事に手を抜いたりはしない。私が思ったのは、作中には書かれていないが、彼らのいる場所はいつも清潔だろうという事だった。閉店するその日のボーリング場も、客をもてなす場所に加えその料理器具も、机やレコードが並ぶその場所も、キチンと手入れされているに違いない。そうやって毎日、道具と生活を磨き上げた人たちは、さんを付けて呼ぶのが相応しい。
本書はラスト1ページ、ラスト一行で様々な思いを一気に去来させる。ある種の予感だったり、未来だったり、これまでの人生とこれからの人生が見渡せるような感覚が訪れる。だから本書が200ページ強しかないなんて信じられないぐらいに、色々な人の人生に、喜びに悲しみに触れられた。この感想文を書くために1年ぶりに彼らに再会したのだが、誰一人として忘れた人はいなかった。過疎や高齢化などの問題もあるはずなのに、この土地は豊かである。
- 「スタンス・ドット」…あらすじ参照。所謂、小説的な良い話なのだけれど、それを許してしまえる、いや本編が存在することに感謝したくなる。登場する若者と同じく、所用(小用?)が無ければ私も入らないだろう古めかしさとある種の威厳がある店構えなのだろうが、こういう事もあるかと思うと通り過ぎる古い店に注目してしまう。小説の枠を超えて私の日常にもこんな素敵があるのかもしれない、と思わせてくれる。文字を超えて音が聞こえる。彼の聴きたかった音が…。
- 「イラクサの庭」…レストラン兼料理教室を開いていた小留知先生は最期に何を伝えようとしたのか…。病床での一言という点で、北村薫さんの『1950年のバックトス』の一篇「小正月」を連想した。フランス語や洋書を織り交ぜるなどの手法なので一番堀江作品らしいのかな(まだ2冊しか読んでないけれど)。亡くなってから出会う小留知先生だが彼女もまた美しい人なのだろう。最終話でこの建物のその後が分かる。
- 「河岸段丘」…毎日のように立つ製函工場の機械の周囲が右に傾いでいる気がする田辺さん。機械を使う者と直す者のお話。修理者である青島さんは作中に書かれている通り機械と真剣に向き合っているが、微妙な感覚を感知する田辺さんもまた機械に、仕事への向き合い方が真摯である。雪の降る土地だからか、雪沼周辺の人々は本当に誠実で、それを当然と思える心がとても良い。背筋を伸ばして読む小説です。仕方のないことなのだけれどラスト一行に背筋が寒くなる。
- 「送り火」…陽平さんと絹代さんは歳の離れた夫婦である。彼らの間には息子がいたのだが…。解説にもある通り、本書は「道具」の連作小説だが、これは悲しい道具の思い出だ。営む書道教室は本当に家庭的で、字と共に生き方まで綺麗になりそうな気がする。私ならこのサービスにガッポリ月謝を取るけど(笑) 彼らが山から見た光景は幻想的で忘れられないだろうが、このラスト一行もまた不穏だ。けれど、あの日のまま止まっていた時間が動き出す暗示でもあるのか。
- 「レンガを積む」…大型レコード店勤務の東京での生活から、故郷近くの商店街のレコード店店主に収まった蓮根さん。自身の天賦の能力と、そしてコンプレックスの為に知識を貪欲に吸収し長所を伸ばしてきた彼もまた誠実。アナログのレコードからデジタルのCDになる事で失われたかに思われた蓮根さんの能力、そしてきっとその変化の中で日本人が失ってしまった何かがあるのだ。この土地にはアナログという言葉が似合う。本篇もラスト一行がいいんだよなぁ。
- 「ピラニア」…なんとも剣呑な題名だが、やはり優しい一篇。題名は中華料理屋を営む安田さんが、自宅兼店舗の中でピラニアをはじめ様々な魚を飼っている事に由来する。自覚的に不器用な、無自覚に誠実な安田さんは本当に愛すべき人物で、繁盛はしないかもしれないが絶対に潰れないお店だ。行ってみたい! もう一人の登場人物が店に融資をしてくれる信用金庫勤めの相良さん。彼のマナー違反で不快に思うはずのげっぷの音がこんなに心地いいとは。
- 「緩斜面」…香月さんの現在の職を斡旋してくれた旧友・小木曾さんが亡くなった。彼の遺児は別れたあの日の自分たちと同じ年齢で…。止められない時間の流れ、時代の中には変化や悲しみがあって、でもその中には喜びもあって、一つの道具がそれを繋ぎ合わせるなんてそれだけで心が揺さぶられる。凧のお陰で上ばかり見て過ごす毎日はとても健全な気がする。舞いあがるという言葉が未来の明るさを象徴させ、そして最後の1ページで最初の1ページの謎解きをする心憎い構成。幸せになるといいな。