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自転車青年記。先行する精神と肉体を縛る戒めの呪い。

エデン (新潮文庫)

エデン (新潮文庫)

あれから三年…。白石誓は、たった一人の日本人選手として、ツール・ド・フランスの舞台に立っていた。だが、すぐさま彼は、チームの存亡を賭けた駆け引きに巻き込まれ、外からは見えないプロスポーツの深淵を知る。そしてまた惨劇が…。ここは本当に「楽園」なのだろうか? 過酷なレースを走り抜けた白石誓が見出した結論とは…。


またもや250ページという『禁欲的に短い (by.有栖川有栖)』作品。その中で読者は主人公・白石誓(通称・チカ)が初出場するツール・ド・フランスの約3週間・3300?に亘るレースを追体験する。レース中の駆け引き、人間関係の変化、囁かれる疑惑など、本書は近藤作品の中でも特にページ以上の厚みを感じた。ルールを全く知らない私をここまで興奮させてしまう近藤史恵はやっぱり凄い。

前作『サクリファイス』から3年。チカも20代後半を迎え、彼のレーサーとしての『青葉の頃は終わった』。本書での彼は間違いなく「プロ」の選手である。しかし世界最高峰の自転車レース「ツール・ド・フランス」を目前にして、彼はプロとして大きな岐路に立たされていた。誰も自分のプロ生活を<アシスト>はしてくれない…。

著者はチカに究極の選択を迫る。自己犠牲か自己保身か。それはチカを崖っぷちまで追い詰める意地の悪い難問だった。最大の問題はスポンサー撤退によるチーム存亡の危機。それは実績のないチカには失職とほぼ同義だ。そしてチームの密約による監督のオーダー。最高のレースを前にして、最大の問題にぶち当たった彼の心は珍しく揺れる。レース中に何らかの結果が欲しい。だが自分勝手な行動は<アシスト>の責務の放棄に他ならない。だが彼の過去には、今の自分がいるのは…。この点で本書は前作を読んでいなければならないかも。

本書は前作以上にミステリよりもサスペンス色が濃くなっている。冒頭から数々の疑惑が登場するが、それは選手たちを疑心暗鬼に、物語の展開を暗中模索にする為の疑惑の霧である。本書ではこの疑惑の霧を一気に払拭させてくれるような真相は潜んではいない。今回は序盤〜中盤の思わせぶりな展開の数々が、ミステリを待望していた読者の必要以上の落胆を招いてしまうのかもしれない。

ただし今回は前作よりもロードレース競技の、特にツール・ド・フランスの楽しみを伝えるスポーツ小説としての魅力が格段に増している。このレース描写がページ以上のスリルと興奮を与えてくれた。シリーズの作品世界、自転車レースに魅了された読者も多いと思われるので、今後は更にシフトチェンジして純粋なロードレース小説を追及しても良いと思う。ミステリ要素なんて飾りであります!

題名の『エデン』は「楽園」という意味。今回は事件も題名も終盤になってやや唐突に語られる。『サクリファイス』が他に考えられない題名で、作品もミステリとして高評価された為、あらゆる面でどうしても見劣りしてしまう。個人的には書名は『呪い(curse)』が良かったな(陰気だし、英単語として一般的じゃないけど)。チカも、そして今後は「彼」も呪いと共に競技人生を歩む事になる。それは間違いなく「呪い」だが、苦しい時に唱える「呪文」や己の行動倫理の「呪縛」にも変わるはず。

今回のチカのあの決断は本来の性格に加え、言い方は悪いが彼が「呪われた日本人」だからこそ出来た事だ。(→)後ろに下がるという前向きな決断(←)、その瞬間の為に本書はあった。著者がその前にチカに栄誉の喜びを与えたからこそ、その決断が一層貴く思える。序盤から著者はチカに冷酷だが、あの場面へのお膳立てでもあった(まぁチカは少々清廉潔白で良い人過ぎるが)。早くも次作での呪われた2人の対決が待ち遠しい。恋のレースも継続中かな?

ラストのミッコの台詞には私も目を丸くした。なるほど<エース>にはこういう精神の持ち主がなるものなのか。作中でチカが自分を『どうしようもなく日本人』と半ば自虐気味に自嘲するが、彼の行動を美徳と取る私もまた同様なのだろう。主要登場人物は誰を主人公にしても面白い作品が出来上がりそう。番外編希望。

前作ではヒヨッコでチームの末っ子的役割だったチカも、若い選手の登場と活躍に眩しさと嫉妬の入り混じった感情を覚え始める。その焦燥の中でも自分の役割を果たし、そして「彼」を思い止まらせたチカの姿には、あの人の姿が重なる。「彼」にとってはチカが競技人生を<アシスト>してくれた恩人になるのだろう。

エデン   読了日:2010年06月24日