- 作者: 岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/01/06
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 209回
- この商品を含むブログ (58件) を見る
コアラの鼻の材質。郵便局での決闘。ちょんまげの起源。新たなるオリンピック競技の提案。「ホッホグルグル」の謎。パン屋さんとの文通。矢吹ジョーの口から出るものの正体。「猫マッサージ屋」開業の野望。バンドエイドとの正しい闘い方―。奇想、妄想たくましく、リズミカルな名文で綴るエッセイ集。読んでも一ミクロンの役にも立たず、教養もいっさい増えないこと請け合いです。
『私の仕事は、ほとんど体を動かさない。だいたいいつも机に向かい、腕を組んで考え事をしている。傍から見れば真剣に沈思黙考しているように見えるかもしれないが、実はろくなことを考えていない場合が多い。もちろん最初のうちは、真剣に沈思黙考していたはずなのだ。それがいつの間にか思考の経路が脱線して、気がつくとこんなことになっている。(文庫本47頁)』
著者にも自覚があるようだが思考脱線型の彼女のエッセイは、だいたいいつもそんな感じだ。そして仕事場の机を出発点にした著者の妄想特急は、分岐を繰り返し、自制による減速と現実逃避というエネルギーを糧にする加速を繰り返しながら、力強く前進する。時にはその妄想特急は、世界各地に、宇宙に、異次元に、分子の世界にまで終着駅を求めて彷徨い続ける。この辺りまで来る物理学の法則を無視した妄想エッセイはほとんど病気である。が、それは同時に優秀な小説の到達点と距離が極めて近い。短編小説として面白い作品も幾つか見受けられた。ジャンルもSFありファンタジーありノスタルジックなものありで、本書が含む世界は無限で、そこが面白いのだ。
岸本さんの文章を読むと、いつも脳や記憶の不思議に思いを馳せる。99%没頭している仕事中に、なぜ今それを脳内で議題にあげる必要のない瑣末な問題が去来し、脳の主導権を奪っていくのかという不思議。本人が忘れたと思っているような事を、別の出来事から連鎖的に圧倒的な解像度をもって思い出す不思議。自分以外の他者同士が言語を使用しないである程度の意思疎通が可能となる事、感情を共有する事の不思議。会話など不可能なはずの物たちから直接語りかけられる不思議。あるものをない、ないものをある、と認識する自分の不確かさの不思議。当たり前の言葉や、当たり前の物の根本的な不思議。同じ地球にありながら別の形態に進化した動物たちの不思議。生きている不思議、死んでいく不思議。今の自分は正常だと思えるのに、1秒前の自分は今の自分と少しずれている。過去の蓄積である記憶の曖昧さと、そこから生まれる恐怖。私自身もすこし心のどこかに引っ掛かっていた事から、考えた事のない下らない、あるいは目を背けていた事まで、岸本さんのアンテナは数々の疑問に受信する。「前のエッセイ」でも書いたが、賢かったり、感受性が高いと世の中、楽しくもあり抱える問題も増えてしまうのだろう。
好きなエッセイは、割り込みについて考察し、対策を練る「郵便局にて」や、町で嫌な事をしてきた人に報復するための道具が仕舞ってある「奥の小部屋」で、我慢からの逃避、被ったストレスの解消法として素敵な考えだった。現実の岸本さんは他人に物を言えぬ人だからか、妄想上の岸本さんはかなり暴力的に他者との問題を解決する。このギャップに恐れおののくが、誰も傷つかないこの方法は、内弁慶が爆発していて彼女らしさを感じるので大変好ましい。
エッセイストとしての岸本さんを愛する私は、本書のようなエッセイを書くのには、旅行や社交などの「人生の経験値(by.穂村弘)」は必要がないから、大量生産も可能ではないか、と思ってしまう。が、翻訳家という本業があり、更に本書の内容は翻訳の仕事中に飛来する妄想を捕捉したものだから、別の仕事もして頂かなければならないという二律背反が浮上してしまう。粗製乱造になるぐらいなら、この渇望感を楽しもうじゃないか。私も食すのなら高級な妄想を食べたい。妄想上手な、その道のプロが1年365日、かなりの時間を奪われながら熟成し、もう1人の冷静な著者の客観的視点で濾過してようやく、本書のような純度の高い妄想が生まれる。その厳選された妄想を、少しずつ惜しみながら食べる、これが読書の喜びを増幅する。