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始祖鳥記 (小学館文庫)

始祖鳥記 (小学館文庫)

空前の災厄続きに、人心が絶望に打ちひしがれた暗黒の江戸天明期、大空を飛ぶことに己のすべてを賭けた男がいた。その“鳥人”幸吉の生きざまに人々は奮い立ち、腐りきった公儀の悪政に敢然と立ち向かった…。ただ自らを貫くために空を飛び、飛ぶために生きた稀代の天才の一生を、綿密な考証をもとに鮮烈に描いた、これまた稀代の歴史巨編である。数多くの新聞・雑誌で紹介され、最大級の評価と賛辞を集めた傑作中の傑作の文庫化。


単純な物事ほど人の心を動かし易い。例えば陸上競技。どれだけ速く走れるか、高く飛べるか、遠くまで飛べるか。ただそれだけなのに見る者に興奮と感動を、更には生きる勇気や意義まで与えてくれる場合もある。もしかしたらそれは競技者の純粋な願いや精神、魂に感化されるからかもしれない。
本書の主人公・幸吉の唯一の願いは空を飛ぶこと。しかし時代は江戸、まだ天に人の上に人は飛ばず、の時代。その願いは、あまりにも突飛であった。物語はいきなり主人公であるはずの幸吉の捕り物場面から始まる。真実に尾鰭が付いた噂が巷間を飛び回り、幸吉はその真意を問われる。物理的にも精神的にも世間から浮いていた幸吉の願いだったが、思わぬ影響が…。
ある意味で序盤〜中盤は誤解と風聞が世界を回している。ある者には民衆の不満の代弁者、ある者には世を騒がす不届き者、ある者には自分の生き方を変えてくれた者として存在する幸吉だが、彼自身に何ら意図はない。しかし幸吉が鳥となって空を飛んだ事実が、結果的にはこの世界に変革の風を吹き込ませた。それが幸吉本人や願いとは直接的な関わりはなくとも。考えてみれば本書は「バタフライ・エフェクト」を表しているとも言える。幸吉が飛べば、塩問屋が儲かる!?
幸吉の行動は人々の視線を空に、上に向けた。空を見上げる者にとって幸吉は、さながら天で唯一不動の存在である北極星だ。幸吉自身は動かない。しかし彼の揺るぎ無い精神、その輝きが人々の心の指針・支えとなる。世の中と自分の現状に疑問を感じた者がふと己の生き方に迷った時、見上げる空には一点の光。それによって人々は自分の進むべき方角を知り、邁進を始める。
作者は幸吉と一定の距離を保ち続けていた。作中の幸吉はその秘めた願い以外は地味な人間だ。内面も見えてこない。第二部では完全に主役の座を確実に奪われている(笑) でもだからこそ、幸吉の人生全体が見渡せる。ただがむしゃらに空を飛びたいんだ!という無鉄砲な人間ではない。一度罪に問われた経験がありながらも最後は自分の心の声に背けなかった誠実で勇気のある人間だという事が作品を通して静かに強く伝わる。ただ残念なのは作者と幸吉の距離感が終盤の盛り上がりまで奪ってしまったように思える点。淡白すぎるのも問題か。
幸吉が子供の頃、叔父が甥の幸吉を息苦しい日常から救い上げてくれた。そして幸吉が飛び立つ勇姿のを見せたかった兄の子は、幸吉にとって甥であった。その後幸吉はその甥・幸助を養子にし、今度は自分が甥の人生を変えた。そしてラスト。幸吉は再び彼の前で飛ぶ…。あぁ、この構成の素晴らしさ!
余談:幸吉が実在の人物とは知らなかった私は、第一部の時点ではライト兄弟の伝記の設定を江戸時代に変えたものだ、と早合点して読んでいました…。

始祖鳥記しそちょうき   読了日:2009年10月25日