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書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。


2013年上半期で断トツの…、睡眠本! 読み始めたのは1月の中旬のはずだから5ヶ月間も私の睡眠を助けてくれていた。難有(ありがた)い難有い。毎夜、まぶたの強い自己主張を受け入れてきたが、2ヶ月ほど経過した夜だったろうか、眠気も吹っ飛ぶような一文に出会った。本書180ページ目『主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本を書斎から携えて来る。然し横になってこの本を二頁と続けて読んだ事はない。(中略)、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。』という文章。笑った笑った。これぞまさに私の姿、私の言い分。そんな私の代弁者である漱石先生の、そのご著書が睡眠剤になるとはお釈迦様でも気がつくまい。
しかし、本書が決して詰まらなかった訳ではない。むしろ読書前には文学への挑戦だ、と硬く身構えていた心は、良い意味で毒気を抜かれた。隣の学校から野球ボールが打ち込まれたり、「あばた」を気にして鏡とにらめっこしたり、ご近所の婦人の大きい鼻を「見たか、あの鼻。傑作だぜ(意訳)!」と嘲笑したりと『猫』ってこんな内容のない小説だったんだ〜、と頬を緩めて心地良く読んだ(そして眠った)。
では、なのになぜ眠くなるのか。私が猫の飼い主・苦沙弥先生のご友人の美学者で詭弁家・迷亭くんよろしく4つの原因を挙げてみようと思う。1つはその文字量の多さであろう。特に前半に顕著なのだが、会話文でも改行をしないのでページ全体がむらなく黒い。その文章量が読書速度をカタツムリ並にまで引き下げ、視覚的重圧が読書欲を頓挫させる。その精神的抑圧の逃げ場が夢の世界なのではないか。2つ目は難解な語句の多さである。当時の文化・風俗の言葉に加え、苦沙弥・迷亭を始めとした登場人物たちの(漱石自身の)膨大な知識による古今東西の人物・小説・格言・用語・パロディなどなど(無知ゆえに)衒学的とも思える箇所に辟易とすることも多かった。この問題の私の解決法としては「読むけど読まない」である。後半になると読者(私)も心得たもので、演説ゾーンに入ったなと自覚すると、「また言ってらぁ」といった心持で聞き流すように耳を傾けるという按配を身に着けていく。漱石文学の研究者でもあるまいし一文一文に真面目に組み合わなくてもいいという気楽な気持ちが大事、というのが読了先輩からの助言である。そして3つ目が文体の心地良さである。頭の中で音読していると、日本語の調子の良さに眠りが誘発される。悪文より美文の方が眠りに入りやすいとは変な現象だ。そして最後、4つ目が内容のなさである。読み切り短編であったものが読者からの好評を受け、不定期に連載化した本書は、長編小説としては骨となる部分が全くない。元より猫視点の日常小説であり、世界は行動範囲の町内に限られる。私は『猫』ってどんな話?と聞かれたら与太話と四方山話が満載の小説と答えるだろう。確かに考えてみれば漱石の他の書籍『坊っちゃん』や『こころ』『三四郎』に比べて、有名な一行目以外、あらすじの知識も持っていなかったのか…。と、ここまで第1の原因・文字量の多さをこの段落で表してみた。これでは読む気なくすでしょ? 眠くなったでしょ? 第2・3の原因の再現は私には無理なので、第4の内容のなさを頑張って再現してみた。だから大した内容がないのだッ!
と、睡眠作用について考察してきたので、勘違いされると困るけれど、私は本書を大変気に入っている。作品全体から滲み出るおかしみが大好きだ。登場人物たち、中でも猫と苦沙弥先生の主観と客観のズレが特に面白い。鼠一匹取れない猫という一家の評判に対しての実践は見事に失敗するし、苦沙弥先生も出不精でどうにも内弁慶っぽく、本人の気性も相俟ってご近所からは嫌がらせを受けるなどどうにも知識人らしくないのである。登場人物たちは知識人であり会話に衒学的なものを感じたとしても、漱石先生によく似た苦沙弥先生が不遇で、長続きしない趣味や容姿など自虐的な内容が多いから、そこから諧謔が生まれる。精一杯の理論武装、長広舌によるストレス発散と思うと、やがて彼らのことを、この家全体を温かく見守っている自分に気づく。私は多分この時代の女性にしては、ズケズケと物を言う細君が好きだ。この夫婦からは芦原すなおさんの「台所探偵シリーズ」の思い出した。毎度、迷亭みたいな友人がやってきて話をするのも似ている。似ているといえば読書中はずっと「森見登美彦」さんを思い出さずにはいられなかった。彼のルーツの一つは間違いなく漱石に、特に本書にある事が分かった。誰が読んでも損はないが、モリミー好きはまた別の意味でニヤニヤできるはず。
最終回である第十一回は、文明批評がより前に出ていた。未婚化や離婚化、そして自殺問題など現在に通じる問題をこの時点で論じていることに感嘆した。自覚心という言葉で語られる多分、自意識の事であろう問題にも触れていてこれまた驚く。「穂村弘」さんは戦後の民主主義的な個人の平等が自意識を肥大化させた(意訳)というような事を書かれていたが、100年前の漱石の指摘も似ている。漱石先生、日本はこんなになってしまいました、と胸を張れない自分がいた。

吾輩は猫であるわがはいはねこである   読了日:2013年06月14日