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少女漫画と小説の感想ブログです

『美味しんぼ』をスローライフとロハスの皮で包んで煮込んだ作品。

([お]5-1)食堂かたつむり (ポプラ文庫)

([お]5-1)食堂かたつむり (ポプラ文庫)

 

同棲していた恋人にすべてを持ち去られ、恋と同時にあまりに多くのものを失った衝撃から、倫子はさらに声をも失う。山あいのふるさとに戻った倫子は、小さな食堂を始める。それは、一日一組のお客様だけをもてなす、決まったメニューのない食堂だった。巻末に番外編を収録。


かの有名漫画『美味しんぼ』をスローライフロハスの皮で包んで煮込んだような作品である。ご存知の通り、『美味しんぼ』は美味しいご飯によって、商談・恋愛・人間関係を円滑にしていく内容に水戸黄門的安心感と安定感を覚える漫画である。

残念ながら本書がどう装っても(逆に化粧を落とし自然体を装っていても)基本の味は『美味しんぼ』である。料理万歳、料理万能!と作品は訴え続ける。『美味しんぼ』には様式美の中にも作者と読者の間に「分かってますよ」という一定の相互理解と寛容があったように思う。だからこそ愛され続ける。

 

だが本書はどうだ。確かに愛はある、一方的に、ある。作者がこの世界を誰よりも愛している。この世界に馴染む前にまず、それを感じた。そしてこの世界は作者が神様であり、神様は自らを信じるもの以外の存在を、お認めにならないだろうと直感した。

神様が作り出した創造物である主人公・倫子はというと、これまた自己愛の人である。失恋して、ついでに一文無しになった彼女の脳裏に飛来したのは窃盗計画で、一番会いたくないはずの田舎の母を標的にする。都会に溢れる金融機関に借りるではなく、身内なら大丈夫だという素晴らしい判断の元に。この時点で彼女は母に勝る要素などどこにもない。庇護されるべき甘えた子供だ。しかし、どうやら彼女は「料理の神様」を信奉し、味方につけているらしい。その自信だけで彼女は反目する母の土地で、反発する母に借金をして小さな食堂を始める。信仰により彼女の料理は美味しくなり、人々の心までに作用するらしい。もしもこの神様が、彼女に料理を教えてくれた亡くなった祖母の事ならいいのだが、どうもそうとは読めない。身も心も捧げ、神の御心を体現する様子は立派な宗教家だった。

私が一番彼女の正気を疑ったのは、全てがうまくいきはじめていたある日、一人の村人に嫌がらせを受ける場面。ロハス村での初めての悪意に意気消沈するが、その後『あれは、(中略)料理の神様が遣わした意地悪な天使だったのかもしれない』、と仕切りなおすのだ。彼女の優しき心に鳥肌が立った(もちろん本来の意味において)。

 

本書はコピペ論文ならぬコピペ小説だろうか。いや、キメラ小説の方が正しいか。既視感の原因は「かもめ食堂」かしらとスクリーンを見ながら考えていたら、中盤以降に「(ネタバレ)余命1ヶ月の花嫁」と「(ネタバレ)ブタがいた教室」が3本同時上映されるから、全てが散漫になっていった。スローライフロハスはサラウンドの音の洪水にかき消され、文章からは商売のにおいがした。見事なほど2部(または3部)構成で、異なるテーマ、異なる価値観を1つの生物として誕生させた、本書は悲しい存在である。

命を食べる、というテーマは小説全体に呪文のように唱えられているのに、作者は小説と真摯に向き合った結果だと信じて、小説に深い味わいが増すと信じて、いたずらに命を奪っていく。中盤の嵐の前のような静けさから嫌な予感を覚えた私は、この安易な手法を使わなければこの小説を、作者を評価できる、と思ったのだが、それは安易に用いられてしまった。なんだか料理に混入した「毛」を見つけたような不快感だった。

料理って、食べ物って、命って凄いの!と倫子は目を輝かせて訴える。だけど、そんなことはきっとこの村の誰もが、おかんだって、読者だって薄っすらとであれ「分かっている」。自分で飲み込み、自分で消化している。暗黙の了解を声高に叫び続ける倫子は幼稚で滑稽だった。

 

小説の深みが欲しいなら、素材=文章そのものや登場人物の造詣に手間暇を掛ければ良いのに。創造物である倫子は素材を引き立て美味しいスープを作ったのだろう。ある程度の味が保障された他人のレシピを見ながら、安価な素材を鍋に入れないで、多少まずくても自分の味を求めれば良かったのだ。小説の神様はそういう人にこそ微笑むはずだ。「意地悪な天使」の私は作者にそう言いたい。

 

  • 「番外編 チョコムーン」…作者の頭の中の世界が、妄想が、形になって表れた。甘くて甘くて胃もたれして虫歯ができちゃう。

表面的には悪くはない作品なのに、読了してから考えると疑問ばかりが噴き出す。(ネタバレ感想:反転→)祖母の死も契機にならないのに、恋人との別れによって声を失い、わざわざ反目する母の元に帰るし、その母からの借金返済プランが夢見がちな悠長なもの。両想いになりたい高校生は2人で食事に来るだけで答えは明白だし、小道具として使われる「ふくろう爺」も旦那に頼んでメンテナンスして貰えばいいし(この作為的なタイミング!)、あんなに大事にしていたぬか床も、中盤以降出てこない。
最も怒りを感じるのはやはりエルメスの話で、おかんがいなくても、主人公は姉妹のように思う(思われているだろう)彼女と暮らせばいい、悲しみを共有し、寂しさを分け合えばいい。更に分からないのは、中盤に登場するウサギとの処置の差異だ。自分を慈しむ存在が世界にはまだいるのに本来の飼い主がいなくなれば動物も悲しむからと一方的に死という幸せを押し付けるなら、ウサギも捨てられた時点で悲しみの中にあり、死が幸福になってしまう。ならばジビエにでもすればいい。この世界の全ての生と死は勝手気ままな神様に握られている。さようならだ、神様。(←)

食堂かたつむりしょくどうかたつむり   読了日:2013年04月11日