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となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)

ある日、突然にとなり町との戦争がはじまった。だが、銃声も聞こえず、目に見える流血もなく、人々は平穏な日常を送っていた。それでも、町の広報紙に発表される戦死者数は静かに増え続ける。そんな戦争に現実感を抱けずにいた「僕」に、町役場から一通の任命書が届いた…。見えない戦争を描き、第17回小説すばる新人賞を受賞した傑作。文庫版だけの特別書き下ろしサイドストーリーを収録。


となり町との開戦のお知らせ。戦争が始まる。主人公はそれをマスコミによる大々的な報道ではなく、町の広報紙で知る。その後、広報紙には戦死者数も(小さく)記載され始める…。う〜ん、シュールだ。序盤は何度も笑い出したくなった。実はこの主人公、ドッキリを仕掛けられているだけなのでは、と何度も疑う。だがどうだろう、中盤を過ぎた辺りからそのシュールさが底知れぬ恐怖に変わる。霊的存在が実証された様な、間違っていたのは自分の方だという常識の反転。「ありえない事」が起こった時、人は何を以ってそれを受容するのだろうか?
戦争という単語から私が連想するのは「映像」や「情報」。中東各国での兵士たちの姿・爆撃の様子、そして文字上の戦死者数。それは私の住む日本における戦争も同じである。太平洋戦争、零戦、原爆の犠牲者数、それらは白黒の映像の中にある。そこに死者の姿は無い。私が得る情報媒体ではそれらは意図的に排除されている。私にとって戦争は距離的にも時間的にも思想的にも、遠い。
これらの私の感覚は、主人公の戦争観に近似している。遠い世界のお話、テレビや新聞の中の「次元」の違う話。突然の開戦に主人公は戸惑い、そこに「実感」を求める。しかし戦後60年以上経過した私たちの「戦争の実感」とは何か? そんな物は無い。未経験の事に実感があるはずが無い。しかし実感が無ければ、海外の戦争も過去の戦争も無いと言えるのだろうか。違う。実感無き物も間違いなく、あるのだ。固定観念と現実とのギャップに苦しむ彼の中の戦争。
どうも終盤が尻すぼみの印象を受けるのは飽くまで主人公の視点・思考で語られるからか。これは彼の個人的な話なのだ。物語は淡々と進み、終わる。最後まで見えない戦争で通すのは自然な流れだが、音も無く終わる物語は盛り上がりに欠ける印象も受けざるを得ない。読者が主人公と共有するのは、開戦の戸惑いと終戦の虚脱感。けれど読者の心を揺り動かすだけが小説の役割ではない。見えない戦争を描いたというだけで本書は圧倒的な存在感示している。私は好きだ。半年間の戦争が秋〜冬という季節なのも音の冴える季節に音も無く忍び寄る戦争の陰をかえって浮かび上がらせていた。
文庫版の「別章」によると開戦理由は戦争によって行財政効率化の促進、地場中小企業の振興、住民の帰属意識の強化などのメリットが見込まれるかららしい。自治体も「攻める」時代なのだ。存続と発展を前提に競争する。途中、この小説では「平成の大合併」による市町村という生命体の生き残りを賭けたサバイバルを描いてるのかな、と思ったが思い過ごし。また読書中、連想したのは『平和を実感するためのショーとしての戦争』という森博嗣さんの『スカイ・クロラ』の設定だった。これは帰属意識の強化、という目的に近いかも。文庫版「別章」はボーナストラック的な意味や、様々な意味で本編を補完する役割を担っているが、ページ数の割に説明が過多。読後感に消化不良を訴えた読者への胃腸薬みたいだ。私は結果的に消化不良を招く読書も、その読書の味だと思うけれど。
あと人の事は言えないんですが、強調したい言葉や表現に「括弧」を多用するのが目に付いた。いかにも大事ですよと注目して下さい、と囲まれた言葉だけど、読者は大事な言葉を自然と浮かび上がらせる能力を持っているはず。

となり町戦争となりまちせんそう   読了日:2009年03月25日