《漫画》宇宙へポーイ!《小説》

少女漫画と小説の感想ブログです

百聞は一見に如かず。人は本当に失恋すると涙を流す生き物だと知った。

坂道のアポロン(5) (フラワーコミックスα)
小玉 ユキ(こだま ゆき)
坂道のアポロン(さかみちのあぽろん)
第05巻評価:★★★★(8点)
  総合評価:★★★★(8点)
 

60年代後半、九州。転入生の薫(かおる)は不良の千太郎(せんたろう)と出会い、ジャズを通じて友情を育む。進級した薫と千太郎は、別のクラスに。ある日、千太郎が他のバンドに参加すると知った薫は、辛い過去を思い出し、彼を突き放して…!?
●収録作品/坂道のアポロン(5)/天井娘

簡潔完結感想文

  • 雨音を貫く一打。頭に流れるジャズの音色を雨に流せば、いつも通りの自分。
  • 文化祭。打ち合わせが無くても、没交渉でも、その音が君からの返事だから。
  • 恋情と失恋。友情が深まれば愛情は壊れる、禍福は糾える縄の如しの法則。

うして彼は いつも一方的に傷つけられてしまうのだろうか、の 5巻。

『1巻』で千太郎(せんたろう)はキリストの再誕のようだと書きましたが、
千太郎にとって現世は受難の日々なのかもしれない。
悲劇的という意味では本書のヒロインは千太郎だろう。

多少(かなり?)暴力的な面もあるが、彼自身の本質は幼い頃から変わっていない。
だが、幼い頃から その出自や毛色の違いから周囲から迫害されていた。

そんな彼がやっと人並みの友情と 人並みの恋慕を覚えたが、
周囲はまた 勝手に彼を傷つけていく。

一度はその手に感触を覚えたからこそ、それがすり抜けていく悲しみは より大きいだろう。
この数々の試練の後に、彼は どんな生き方を選ぶのだろうか…。


度も描いているが、本書においては友情と恋愛は両立しない。

なので『4巻』ラストにおいて、
千太郎への不信感から友情を手ずから放棄した薫(かおる)には恋愛面での幸運の兆しが見える。

それが律子(りつこ)、そして女子生徒たちからの人気である。
千太郎との友情を投げうった薫に気遣い律子は優しく声を掛ける。

千太郎以外に親しい友人のいない薫は教室で独りで昼食をとっていたからだ。

そんな律子を冷やかす女子生徒から、他に好きな人がいることを痛いほど知っている薫は、
律子を守るために訂正を試みる。

その予想外に柔らかい口調に女子生徒たちは安心し、薫と話すようになる。

確かに性格的に薫は男子生徒よりも女子生徒の方が気が合いそうな気がしますね。
男性性を感じさせない容姿に学校一の優等生というブランド。
打ち解けた女子生徒が話しやすそうな人ではある。

ここで薫が男子生徒からの嫉妬や嫌がらせを受けないのは、
千太郎をも牛耳る裏番長という噂のお陰だろうか。

しかし今は薫と千太郎は冷戦状態。
薫と千太郎に距離が出来ていると察した男子生徒が手を出してもおかしくない。
もし場面で男子生徒からリンチを受けたら千太郎は『1巻』の様に助けてくれただろうか。

きっと助けてくれるでしょうね。
千太郎は本質的に優しい人だから。
でもそれだと『1巻』と同じ内容だから繰り返さなかったのでしょう。


そして どうやら昼食は購買で買い求めている薫から察するに
一緒に住まう伯母一家は薫の昼食は用意してくれないみたいですね。
朝食や夕食のシーンはないが、ちゃんと提供してくれているのだろうか。

この辺、薫はシンデレラの様ですよね。
地元の名士で収入のある実父は仕事で家を空けがち。
父の目がないのをいいことに継母と義姉妹(実際は伯母とイトコだが)がイジメ抜く。
ジャズの名曲「いつか王子様が」と願っているのは薫かもしれません。
そうなると薫も千太郎も律子も、全員がヒロインですね(笑)


崎はいつも雨だった♪ からなのか、
本書の中では雨のシーンが印象的だ。

『1巻』で薫を開放してくれた千太郎とのシーンも雨、
『2巻』で父親のいない家で孤独を感じた時も雨、
『3巻』『4巻』で幼い頃 別れて以来の母親との再会も雨だった。

そして今回は、薫の頭の中で鳴り響きそうになるジャズの音を かき消すために雨が用いられる。
雨音はショパンの調べ、とばかりに本来のクラシック畑の自分に戻り、
図書館で勉強に没頭する薫。

それでもジャズは2人から離れない。
千太郎はロック畑のビートルズの練習の合間にもジャズのリズムを刻み、
その音は「ある程度は防音になってる」部屋の壁も、雨の音も すり抜けて薫の耳に届く。

しかし それをも聞こえないふりをする薫。
薫に千太郎の声が、音が届く日は来るのだろうか…。


情を失いかけている千太郎に更なる悲劇が襲い掛かる。

それがキス未遂。
いつもの地下室に憧れの百合香(ゆりか)と2人で入室し、
唇を重ねようとした刹那、部屋の中から一人の男が現れる。

こともあろうに それは行き場を失った淳一(じゅんいち)。

自分の軽率な行動を恥じ涙を流して立ち去る百合香。
その姿を見て千太郎は彼女が誰を好きなのか理解し始める。

薫も百合香も、そして人生とジャズの良き兄貴分・淳一も失った
千太郎はジャズから遠ざかるべく、ロックに傾倒する。
ドラムを違う鳴らし方をしていれば、雑音が消えていくと信じて。


太郎が孤絶を深めたまま迎える文化祭回。

千太郎がロックに打ち込む理由を知らない薫は、
バンドの中でドラムを叩き、歓声を浴びる彼の姿にまたショックを受ける。

彼我の間に出来た 果てしない距離に居たたまれず彼は舞台から遠ざかる。

そこで起きる電気系統のトラブル。
電気がなければエレキギターは鳴らないし、声は遠くに届かない。

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暗い道を独り進む薫だが、千太郎の言葉は いつも彼の行く道を照らす光となる。

復旧のため舞台裏の電気コードを確認している薫は、
幕を隔てた舞台表の千太郎の話で彼が松岡に共鳴し、協力した理由を知る。

その上で千太郎はロックからの卒業を宣言し、その理由として
「大事な相棒ば 待たせとるけんな」と心情を吐露する。

ここで薫は千太郎への友情が一方通行でないことを確信する。

薫と千太郎の友情は痴話喧嘩みたいですよね。
違う人に浮気したんじゃないかという不安から自分で恋愛を終わらせた薫。
だが、千太郎にも理由があり、彼は ずっと変わらない想いを抱き続けていた。
そして仲直り。
少女漫画の王道パターンである。


自分たちの間には信じられるものがある。
そう確信した薫は、場を繋ぐために生音でジャズを届ける。

そこで奏でられるジャズメドレー。
打ち合わせ一切なしのアドリブ演奏だが、
そのメドレーには薫のジャズの歴史の全てが詰まっていた。
その横にいつもいた千太郎は彼の演奏に合わせる。


本書の中でも屈指の名シーンではないだろうか。
最初にピアノで薫が語り掛け、それに千太郎が応える。
そこから始まる幾千の言葉よりも雄弁な掛け合い。

例えどんなに離れても、会えない日々が続いても、
きっと自分の言葉に彼は応えてくれる友情が彼らに生まれた。
技巧よりもジャズを、今この時を心から楽しんでいることが
聴衆の心を惹きつけていく。

音楽の中でもジャズでしか表せない仲直りの仕方ではないだろうか。

そうして千太郎と下る、学校帰りの坂道は爽快な景色が広がる。
そこには憂鬱の欠片もない。

独りでは憂鬱な坂道(=人生)も誰かと一緒なら飛べそうなぐらい体が軽くなる。
それが友情や愛情、人の生きる意味なのかもしれない。

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セッション中に言葉は不要。音で殴り合うことで男の友情は深まる。

化祭は評判を呼び、薫たちに女性ファンが激増。

人の歓声から逃げ場として屋上が使われる。
かつて薫は自分の周囲の無音から逃げるように、自分の呼吸を整えていた場所。
それなのに今は、千太郎と律子と息を乱して、
周囲を取り囲む人から逃げてきた。
同じ場所でも、同じ逃げでも こんなにも意味が違う。
こんな未来がくるなんて予想もつかない毎日だ。


屋上で千太郎は薫にだけ失恋の予感を話す。
誰かと話すことで心は軽くなる。
楽しいことも悲しいことも分け合えるのだ。
それもまた友情。


そして そんな薫たちの人気にも、本来なら文化祭で人気を集めるはずだった松岡は嫉妬しない。
「もっと先を見る」彼の向上心は本物ですね。
自分の目的のためなら手段を選ばない彼なのにどんどん好きになっていく。


情と恋愛は成立しないのならば、
薫との友情が復活した千太郎に何が起きるか。

失恋である。
しかも今回は、言葉よりも雄弁な事実が彼を痛めつける。

大学を辞め、実家から勘当され、
一人暮らしとなった淳一の部屋を訪ねた千太郎が見たのは、百合香の姿。

せめて淳一の口から語られていれば心の整理もついただろうが、
いきなり現実を見せつけられ、そこから逃避することしか出来なかった千太郎。

本当の失恋は、その予感の数倍 苦しい。
胸からせりあがった苦しみは涙となって体外に排出される。

こうして千太郎も薫と同じく失恋を経験する。

モデルになった百合香の絵画でアポロンとして描かれた千太郎。
その絵画が涙を流すのは予言だったのだろうか。
描き手が百合香で、アポロンの愛を徹底的に拒絶する神話というのも残酷だ。


危惧するのは、淳一の本気度ですね。
プレイボーイの彼にとって、当時 大学生だった彼の冬休みの百合香とのキスは遊びではないか。
また独りで生きている今の彼が百合香を迎え入れたのも寂しさを紛らわせるためだったのではないか。
そう思えてならない。
『2巻』ぐらいから順々に誰かが失恋している本書。
百合香にその順番が回ってこないか心配です。


でも千太郎が失恋したのなら、薫との間柄は暫く安泰ですね。
私の関心事は そこが一番なのです。

ただ今度は薫の恋愛が上手くいきそうで嫌な予感しかしない…。


「天井娘」…
アパートの階下からの音に悩まされる青年。
問題はその音が天井や壁ではなく、自分の真下の床、
つまり階下にとっての天井から音が鳴っていることであった…。

これまた奇想の物語ですね。
「重力が反転」というよりも風船と考えた方がいいのか。

恋から一番遠い位置にいた2人が急接近する様子が楽しい。
アポロン』収録されている短編はそのパターンが多いですね。