- 作者: 森谷明子
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2009/06/25
- メディア: 文庫
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帝ご寵愛の猫はどこへ消えた?出産のため宮中を退出する中宮定子に同行した猫は、清少納言が牛車に繋いでおいたにもかかわらず、いつの間にか消え失せていた。帝を虜り左大臣藤原道長は大捜索の指令を出すが…。気鋭が紫式部を探偵役に据え、平安の世に生きる女性たち、そして彼女たちを取り巻く謎とその解決を鮮やかに描き上げた絢爛たる王朝推理絵巻。鮎川哲也賞受賞作。
ホンのちょっと前、もしくは今は昔、受験生だった私は、数学が出来ないという理由で日本史と古典を学んでいた。そのため本書に登場する紫式部による『源氏物語』の成立も、その時代の権力者・藤原道長の栄華も知識として脳の奥の方に格納されてる。しかしそれらは皆、歴史上の人物、受験に必要な単語でしかなかった。そんな彼らが、本書の中では伸び伸びと生きていた。日々の暮らし、政、恋、迷い猫、老い、そして女がすなる謎解きと執筆といふもの。平安時代の「日常の謎」系ミステリを成立させる為の、「日常」の描写があっぱれ。
探偵役は紫式部。本書で一番のお気に入りの登場人物は彼女だ。彼女は賢く、また慎み深い。男女の機微を描く人ならではの洞察力を以って数々の謎を解き明かす。本書では幾つかの消失事件の顛末が描かれている。一匹の猫、一人笛を吹く者、一帖の物語、一度きりの文章。その消失から浮かび上がる意図を彼女は掬い上げる。また後半の2つは紫式部が日本史上初の長編小説を書いた波紋から生じた謎である。そして彼女は作家としての苦悩、作品が及ぼす社会への影響、読者という存在を初めて意識する事になった人物である。ミステリのみならず彼女だけが体感する恐怖まで描き切っている手腕が新人離れしている。
各短編で少しずつ時代が下るのも、いとおかしな構成。語り手のあてきは天真爛漫だった少女時代から恋を知り、別れを知り成長し、そして最後には御主が秘した事まで見事に辿り着く洞察力を身に付けている。式部や道長は社会的立場の向上の裏で老いを実感する。慎み深い式部が黙し続けた事、激情に駆られ沈黙を守れなかった事の2つの事象が対照的で、的確に彼女の矜持を表している様に思えた。また(ネタバレ:反転→)3編とも子供が消失事件に1枚噛んでいる(←)という共通点も見逃せない。ここでもまた、各人の成長と併せて時の流れを感じる事が出来る。登場人物の描写では対立構造が生まれつつある清少納言の嫌味っぽい手紙にも彼女の教養の高さと、ツンデレな性格を伝えている箇所が好き。
本書の後半は丸谷才一さんの『輝く日の宮』とテーマを同じにするが、各人が書の中で提示した説はそれぞれ違うので併せて読むと、いとをかし、らしい。丸谷説をすっかり忘却してしまった私も再読しないと…。
余談:著作権や印税制度が確立してれば大儲けなのにと思う俗物の私…。
- 「上にさぶらふ御猫(長保元年)」…あらすじ参照。地味な謎の割には少々冗長で、謎の交通整理方法が上手くない(特に2匹目の騒動)。権力・派閥争いを猫一匹で描き、政治的背景も「日常」に織り込む作者の力量が読み取れる。本編だけで本格的に繋がる左大臣や彰子との関係性や、式部の能力や性格、初期『源氏』の評判などの書き込みが過不足なく描かれているからこれが適当な長さなのかな。彰子の賢さも好き。あてきの恋は少女漫画の様な甘酸っぱさを味わえる。
- 「かかやく日の宮(寛弘二年)」…時の止まった寂れた屋敷の周囲で笛の音だけが鳴り響く。笛の主は一体どこに…。笛事件の物理トリックは何と言う事はない。それよりもやがて本流となるベストセラー『源氏』の異変に気付く一連の流れが淀みなく美しい。官位を持たない一般女性の作品が都中の評判を集め、フィクションとノンフィクションの垣根を越える。権力者に対抗する手段は読者という存在、そして書そのものが持つ力という概念が良い。『源氏』の構図はその文化を知らない世代から「バカになる」と軽視された漫画やアニメが社会現象にまでなるのに似ているのかな(島田荘司さんの賞選評のお言葉「同人誌」でもいいけど)。
- 「雲隠(長和二年―寛仁四年)」…『雲隠』の文章はいかに消失したのか…? 消失の恨みを焼失で返す、か。希代の才人の対決は怖いほど。それぞれの後日談も読み応えあり。ここでもまた時の流れを感じずにはいられない。(反転→)式部は子への愛情によって探偵の責務を放棄した(←)という構造も素晴らしい。おぉ出家を機に『日の宮』の処分を考えていた実資は生涯、出家しなかった史実!