藤沢 志月(ふじさわ しづき)
彼女はまだ恋を知らない(かのじょはまだこいをしらない)
第03巻評価:★★★☆(7点)
総合評価:★★★☆(7点)
それぞれの思惑と自分の想いに向き合うことが、きっと大人になるってことなのか…。杏奈への届かぬキモチと決別するのか、それとも!? 空太――試練の時!
簡潔完結感想文
- 自分への悪意や暴言を自身で消化して杏奈覚醒。煩悶としたのに空太は部外者。
- 杏奈の成長は止まらず、彼女の未来を誘導しようとした空太の未熟さが目立つ。
- 最年少だから見えていなかった未来に目を向けることで、杏奈は何を知るのか。
聖女降臨、そして卑劣な男 爆誕、の 3巻。
『3巻』は これまで天真爛漫で年齢よりも少し幼く描かれていた杏奈(あんな)の成長が主に描かれていたように思う。特に収録3話中の最初と最後で、杏奈のことを快く思っていない同性に対して杏奈は聖女の力を発揮して、彼らと良好な関係を結んでいる。そしてラストには これまで年齢的な問題で杏奈が持てていなかった将来への視座が持ち込まれ、彼女が自分の人生をどう描くのか、そして そこに どう空太(そらた)が関わってくるのかが問題となってくる。いよいよ杏奈も恋愛的な素養を身につけ始め、彼女自身の願いが出てきそうな気配である。
しかし今回 杏奈が予想以上の成長を見せたことで空太が また苦悩することになったのが皮肉だ。この『3巻』は『2巻』と鏡写しの構造ともいえ、『2巻』では空太がイギリス留学することで屋敷から離れ、幼なじみの男女の関係は そこで途切れ、恋愛的進展がないまま終わるはずだった。けれど短期留学後に空太は1秒でも長く杏奈といることを願い、この家に戻って来た。
これで空太には自分の卒業までの1年半の時間の猶予が出来た。例え この屋敷での暮らしが生殺しの地獄であっても その時間で自分の気持ちを消化させることが出来れば良かった。この猶予は心理学的な意味でのモラトリアムと言い換えることが出来るだろう。空太は杏奈を諦めることも出来ないが、自分の立場を無視して周囲に迷惑を掛けてまで意思を貫くこともしない。大人であり子供なのが今の彼なのだ。だから時間的猶予だけが彼の救いとなっていた。
けれど今回、杏奈の高校進学でまた別れの危機が訪れる。杏奈の進学は来年の春。『3巻』の時点で あと半年もない。空太が どんなに願っても、いや強く願えば願うほど時間の猶予は短くなっているように思う。まるで「時間を何度ループしてもバッドエンドになってしまう主人公」のようだ。
しかも空太は自分の願いで杏奈の行動を誘導しようとしている。けれど杏奈が その誘導に乗らず、自分の足で自分の未来を歩き出したことで、作中で初めて杏奈と空太の精神年齢や覚悟が逆転したように見える。杏奈は上に立つ者の覚悟と自覚、そして才覚があるのに対し、空太は自分のために彼女の人生を歪めようとした。物事の見方が一面的で幼稚というのは、秘書・瀬能(せのう)のメイド・麻実(あさみ)の酷評の中の一言だが、これは今回の空太にも適応されるものであろう。年齢は上なのに、立場的に精神的に幼く弱い自分を否応なく自覚して空太は自己嫌悪に まみれていることだろう。
これまで空太は、杏奈の幼稚さと無邪気さに振り回される不憫な役どころだと思っていたが、まさか杏奈の立派な言動で空太が愚かに見える日が来るとは思わなかった。
また杏奈と麻実の問題に空太が全く介入しない、という点も良かった。ここで杏奈が空太に寄りかかってしまったら自立ではなくなっていたが、ちゃんと彼女は自分の中で麻実との問題を処理し、解決した。こういうヒロイン、またはヒーローが出しゃばり過ぎない、その塩梅をコントロール出来ているのが作者の巧みなところだ。その後の女子高内でのこともそうだが、杏奈は空太がいなくても芯の強さを見せている。まさに聖女のように敵意を消滅させ、カリスマ性で彼らを仲間にしてしまっている。
序盤で幼稚だった杏奈に、ちゃんと成長を、それも抜群のタイミングで成長させる作者の手腕に舌を巻くばかりだった。
麻実からの(性的な)誘惑を断り、一夜の過ちはなかった。空太は麻実を拒絶したものの、杏奈に対する汚い欲望を自己嫌悪しており、麻実と そういう関係になれば、その方面の欲求は消えるかも とも考える。それが杏奈への執着への消滅の第一歩になるかもしれない。
けれど麻実は空太に興味があるというより、杏奈の周辺のものを壊したいという印象に見える。そんな麻実の心理を正確に読んでいるのが瀬能だろう。旦那様の一番近くの屋敷の一番上で仕事をしているからか、彼には物事が良く見えている。
麻実は瀬能に、使用人同士の恋愛は許されないのか問い、そして使用人と主の恋愛も問う。瀬能の答えは前者は許容、後者は論外。ならば麻実は自分の空太に対する言動は親切ではないかという論調を持ち出すが、瀬能は一面的な見方で稚拙な考えだと麻実を一刀両断する。瀬能が本当に杏奈と空太の接近を許せないなら、麻実を協力者にすることも出来たはずだが、彼は汚い手法は取らない。敵だか味方だか本当に分からない人である。
瀬能にフルボッコにされた直後に杏奈に声を掛けられ、麻実の中にあった彼女への羨望や憎しみが一気に顔を出す。
だから今度は譲ってくれたドレスのように空太が欲しいと、恵まれた杏奈に譲渡を迫る。話しながら興奮した麻実は階段から落ちそうになるが、杏奈は彼女に手を伸ばし、入れ替わるように自分が踊り場まで転落する。
対外的には、これは杏奈の「お転婆」の自損事故として処理される。空太の祖父という目撃者がいたが、彼は杏奈の意向を尊重する。会話も聞いていた祖父は麻実の「雪」に関する主張に自分の見解を述べる。
これが瀬能の言う多角的な物の見方なのかもしれない。この見解は2人の女性の立場の違いを的確に表し、非常に示唆に富んでいて、とても感心させられた。それが一世代前の悲劇とも繋がるらしいこともコマから読み取れる。本当に作家として力を付けたのだと驚嘆するしかなかった。
麻実は安静にする杏奈に近づき、彼女の行動の真意を問う。答えは単純で仲良くなりたかったから。杏奈は自分の行動が軽率で誇りを傷つけるものだったことを謝罪するが、空太に関しては譲らない。これは空太の意思を尊重したい、という杏奈の考えだった。そうやって大きな視点から人を思い遣れることを目の当たりにして、麻実は改めて自分の考えの小ささに気づいただろう。
だから麻実は杏奈を汚すことを止め、彼女の大事な空太への執着も失くす。空太からしてみれば自分を誘惑した麻実から勝手に振られたような形で理不尽さを覚えただろう。でも この件は、空太が部外者で女性同士だけで内密に話が進むから良い。杏奈が空太に真相を話したりしたら残念な展開になっていただろう。
麻実は初任給で貰ったお金で杏奈への謝罪の気持ちを形に変える。それは雪の結晶型のペンダント。どこに舞い落ちても同じ雪だという彼女なりの答えなのだろうか。こうして2人の女性の友情は成立する。
この屋敷と、この小さな町しかしらない杏奈にとって麻実は初めての外の世界の人。だから衝突もするが、それも乗り越える。杏奈という人の器なら、どこでもやっていけるという今後の展開の布石のようにも見える。
東京から杏奈の婚約者の龍也(たつや)がやって来る。この人は1巻につき1度は登場するな。それもこれも今後の布石なのだろう。この時点で どういう役割かは勿論 分からないが、旦那様に会いに来たというよりも、作品的には読者に龍也という人間を記憶してもらうため(忘れられないため)に頻繁に登場するのだろう。
龍也は空太の苦しみが見たい人なので、デートや誕生日パーティーと同様に今回も空太を同席させて食事をする。この席で杏奈の高校の進学先が地元に1校しかない高校ではなく東京の全寮制の女子高という旦那様の希望が出される。描写からすると旦那様というよりも瀬能の主導に見える。空太の留学といい瀬能は2人の距離をどうしても離したいらしい。これは龍也と真逆の態度と言えよう。龍也が余裕を見せる一方、瀬能は何か追い立てられるように2人の仲が成就する前に絶対的な距離を確保したいように思われる。
それに動揺する空太、反論する杏奈。しかし旦那様は娘と同じ道を進ませることで同じ失敗が待ち受けていると思い込んでいる。杏奈が反対の態度を見せて旦那様が躊躇する中、瀬能は旦那様をコントロールして杏奈の進路を決定する。
杏奈に勧められている学校が、龍也の幼なじみが通っていたため、龍也が仲介して、学校見学に行くことになる。龍也の動揺から見るに、彼は この日、杏奈の進学の話はともかく、進学校がどこかまでは関知していなかったようだ。
空太の次は杏奈が この屋敷から離れて暮らす。空太のイギリス留学が大学まで数年間、続く想定だったように、杏奈も東京で高校・大学と この土地を離れる。そして屋敷に戻る時は、龍也と結婚した後となりそう、というのが空太の想像。どちらにせよ屋敷から出た時点で未来は確定してしまう。
意見を言える立場ではない空太に残された可能性は、杏奈による東京行きの絶対の拒絶。だから旦那様を瀬能が誘導したように、空太は杏奈の答えを誘導する。それは自分自身のために。
しかし決意を固めかけた杏奈に新しい見方を与えたのは、この家の歴史を旦那様と見てきた空太の祖父。旦那様の杏奈への関与は間違いなく愛情であることを祖父は話す。
また空太の祖母は、杏奈が見ていたアルバムから20年前の屋敷の話をする。そこで瀬能が この家に入って来た経緯が空太と似ていることが明らかになる。瀬能も両親の死後、旦那様に目をかけられ この屋敷に招かれた。そこで恩義に報いるよう努力して今や旦那様の右腕になっている。
それらの話を聞いた杏奈は旦那様の様子も窺う。そこで彼の体調が あまり良くないことを察知した杏奈は、祖父のために、祖父の望む生き方を自分に課す。それは この屋敷の お嬢様としての第一歩なのかもしれない。それを痛感した空太は子供のようなワガママで杏奈を誘導した見苦しい自分に気づかされる。
こうして杏奈は進学に向けて学校見学をする。龍也の仲介で現れた この学校の卒業生・白鳥 美咲(しらとり みさき)は登場して早々に龍也との過去を匂わせる。
年の差が8歳違う、杏奈と龍也。その8年前、丁度 龍也が高校を進学を前にした頃、彼は東條寺家から清和家との結婚話を持ち掛けられる。その頃、交際していたのが美咲だったのだが、家の意向には逆らえなかった。そして その影響で美咲は、東條寺家から圧力をかけられ男子禁制・恋愛禁止の女子高に入れられる。彼らは破局した幼なじみなのだ。
白鳥家は杏奈の清和(せいわ)家より格下で、一世代前の破談を乗り越え、今度こそ円滑に縁組を進めたい両家は間違いが起こらないように、若き日の龍也たちを引き剥がした。一度だけ龍也が この女子高に潜入して大騒ぎになったが、それで復縁とはならず、中途半端な別れ方が しこりとして残った。そして そのまま龍也は杏奈との婚約を、美咲は新しい男性との縁談が進められ、婚約したようだ。
杏奈の母親がしたことは、杏奈の人生に ずっと影響をしている。優しく従順だった母は結局 家に背いた。その逆で天真爛漫で自由奔放に見える杏奈は家のために生きようとしている。母の生き方は一族だけでなく他家の人たちの人生を変えてしまうもので、その責任も杏奈は負わなければならない。
少し意地悪な質問をした美咲だったが、杏奈が一切合切の荷物を背負う姿を目の当たりにして自分の言動を謝罪する。ここぞという時に強さを見せるのが杏奈で、麻実も美咲も彼女の強さに改心していった。
そして杏奈は事情を知って龍也に美咲への想いの有無を聞く。彼は否定するが、杏奈は美咲が別れる時に彼の気持ちが聞きたかったという、おそらく龍也に言えていない美咲の言葉を伝える。
そんなヒロインの お節介によって2人は話す機会を設け、復縁、ということにはならないが、過去をちゃんと過去にすることが出来た。
龍也は軽薄な今のように遊びのまま美咲と関係を続けることを考えなかった。それは若さであり、美咲が そういう関係を嫌うことをよく知っているから。そして美咲も幼なじみが真面目でヘタレなことを知っている。そんな彼が起こした女子高潜入騒動は どれだけの決意があったか、今の美咲には分かる。勿論、美咲は龍也が結婚への道を拓いてくれることも望んでいた。
そう出来なかったのは彼が家に支配されているから。この日、美咲は龍也のことを素敵な人だと間接的に伝える。そんな彼女の背中を見送って、龍也はメガネをかける。それは中学時代の純粋な自分とは違う、大人の良識という名の仮面なのかもしれない。または溢れ出る涙を誤魔化すためかもしれない。
後日、美咲は その報告と感謝を恩人である杏奈に手紙で伝える。そして彼女に自分のような本当に願ったことが叶わなかった人生を選ばないよう、彼女に理想の未来を描くことを促す。
一方、杏奈が不在中の屋敷では空太と会話中の旦那様が立ちくらみで倒れる。運び込まれた寝室で旦那様はうわ言のように「瀬能」への謝罪を繰り返した。これが何を意味するのか。過去の謎も浮かび上がってきた。