
リカチ
明治メランコリア(めいじメランコリア)
第09巻評価:★★★(6点)
総合評価:★★★☆(7点)
春時と口づけを交わした鈴。だが、春時が一瞬見せた苦悩の表情に鈴の心は沈んでいく。一方、津軽は鈴との距離を縮めようと贈り物をしたり、照れてみたりと、らしくもない行動を取ってしまう。しかし、それが鈴の心を動かすきっかけとなり――!?
簡潔完結感想文
- 愛染が津軽とチェス対決をしたら遠峰の時よりも大差で負けそう。自尊心だけが強い小物。
- 大切に思うからこそ その人の意思に任せたい。春時と津軽は根底が似ているような気がする。
- 愛染が小物なのは真のラスボスは ひな の方だからか。元カノに今カノを紹介する状態か?
負けヒーローは勝ち方が分からない、の 9巻。
『9巻』で春時(はるとき)が異性から兄へと戻ってしまう。本当に鈴(すず)を奪うつもりなら春時は、鈴の中の自分が兄ではなく異性と認識されていた記憶喪失中に一気に寄り切るべきだった。でも春時は こじらせている上に潔癖な部分がある。鈴を騙すように本来の彼女ではない鈴を奪うことも出来ないし、後ろ暗い過去がある自分には その資格がないと思っている。折角、今回は津軽(つがる)よりも先に今の鈴のヒーローになれたのに、その直後から彼女を避け始める。都合が悪くなると鈴を避けてしまうのは春時の悪い癖。少々強引な俺様で兄様なヒーローになれる機会を逃し、また登場当初のような鈴を守るためなら どんなことでもして、回りくどく鈴を守る立場へと戻ってしまう。この こじらせ具合、エゴを優先できない思い切りの不足、恋愛経験がなさそうな未熟さ、そのどれもが春時らしいのだけど。
鈴が兄・春時を思い出したことで天秤は傾き始める。当て馬の猛追、そして追い越される敗北感を初めて覚えた津軽は いよいよ本気で恋を始める。これまでの鈴への態度とも、元カノの ひな とも違う、今の鈴だけに見せる姿勢と表情を見せて鈴を胸キュンさせる。『緋色』から数えて22巻目に到達して ようやくヒーローが本気の恋を始めた。


津軽は今の鈴のヒーローになるために愛染(あいぜん)から彼女を救い権利を得た。ただ出来れば ここで愛染を追うのが津軽の役目になった理由が欲しかった。なぜ同じ空間にいた春時が駆けつけられなかったか、ページ数の都合で そこに言及できなかったなどの理由がありそうだけど、この場面で物語の潮目が変わるのだから、そこは何かしらの理由が欲しかった。春時が津軽の能力を信じて「行って下さい」と送り出したとか、屋敷を脱出する際に怪我を負ったとか、あそこで津軽だけが立つ理由は大事だろう。ついでにドラマチックな場面を創出しようと遠峰編と同じような内容の重複が見られるのも残念。何度も極限状態を描くと似てしまうのだろう。
津軽の行動で良かったのは、今回 フランス渡航前と同じように ひな から呼び出された時、今度は ちゃんと鈴に事情を説明し、鈴の危険性も認知しながら自分は鈴と一緒に来てもらいたいという「津軽」の要望を滲ませたこと。これまでの津軽は自主性を重んじる余り相手の意思に委ねていた。それが時に薄情に見えてしまっていた。しかし津軽は春時の存在があっても、鈴が春時を好いていても、自分との過去を思い出さなくても、とにかく鈴に好かれるように努力する。
これまで自然体に生きて、自然体で恋愛してきた津軽が不自然な照れや赤面をしてでも鈴に想いを伝える。これだけで読者の心は満たされる。津軽も一人の恋をする男子(アラサーだけど)になったことが嬉しい。そして通算22巻目でも初めて見る表情があるのだと、鈴のように長年 津軽の顔を見てきた読者に新しい魅力が届いた。この表情を引き出しただけでも記憶喪失展開に お釣りがくると私は思った。
今の津軽なら鈴がもう一度 恋に落ちても、春時と同じぐらい好きになっても それに値する人間だと思える。どうしても『緋色』は鈴を遊郭という苦界から出した順番が重要で、幼い鈴にヒーローとなった男性への好意の刷り込みがあったようにも見えてしまうけれど、全てをリセットした17歳の女性としての鈴もまた津軽に恋する。単なる三角関係の継続だけでなく、男女として出会い直すために記憶喪失は必要だったのだろう。
それにしても愛染が小物すぎる。きっと頭脳的に津軽 > 遠峰(とおみね)> 愛染で津軽が対決するほどの人物ではなかった。何なら遠峰が余興で愛染を潰せる展開すらあり得る。単なる自尊心モンスターなんじゃないかと思ってしまう。ラスボスが愛染ではなく ひな のようなので、愛染はわざと矮小化されているのかもしれないけれど。
愛染(あいぜん)の計画による鈴のピンチを救ったのは春時だった。鈴を助けるヒーローになった春時は溢れる想いを伝えキスをする。といっても記憶喪失中の鈴にとってもキスは2回目。春時がキス出来るのも先に津軽で そのイベントを終えているから という悲しい側面もある。今回の津軽は愛染の追っ手を罠に嵌めて無力化する功績があるが、鈴のヒーローにはなれなかった無力感を抱える。
3人で愛染の屋敷に戻ると密室から脱出した愛染が秋山を人質にしていた。津軽は遠峰(とおみね)の時と同じく、自分の逆鱗である鈴に累を及ぼした時点で愛染を許さない。そして秋山もまた愛染を警戒しており、自分が危険に巻き込まれたら即 愛染の道を閉ざすよう手配済みだった。
そこで愛染は鈴を利用する。ラスボスに男性キャラが足を撃たれるのは遠峰でも見た。愛染が人質に鈴を選んだのは逃亡の足手まといになりかねない秋山より鈴が便利だったからかもか。秋山は追跡を警戒し、秋山たちが居る状態で屋敷を爆破する。自爆装置付きの別荘って…。鈴は愛染の暴力によるコントロールを受けても解決策を模索する。
しかし自負するほどは頭のよろしくない愛染の計画など津軽はお見通しで爆破前に屋敷を脱出。津軽は土砂崩れで足止めされる愛染たちに追いつく。だが鈴が人質の現状は変わらず、津軽は死ぬことよりも鈴に忘れられたことが恐怖だったと想いを告げて、自分のこめかみに拳銃を突き付け引き金を引く。その様子に鈴は愛染の拘束から逃れ津軽に駆け寄る。津軽は鈴の火事場の馬鹿力を信じて演技していた。読み返すと自分に酔った演技に見える。
形勢が逆転しても愛染は自分の部下を人質にして、誰も犠牲にしたくない鈴らの人間性と正反対の姿勢を見せる。しかし それが仇となり愛染だけが行方知れずになる。愛染だけが がけ崩れに巻き込まれた形となり、誰も罪に問えない状況で鈴たちの心を濁らせない。この状況だと鈴は しばらく足の感触に悩まされるだろうけど。これで津軽も記憶喪失後の鈴を救出したヒーローの資格を得たか。
こうして全員無事で、愛染だけが発見されないまま東京に戻る。鈴は津軽のピンチに彼の名前を呼んだが、記憶の薄いところから思い出し、濃い部分は未だに茫洋としたまま。それでも津軽と一緒にいることへの警戒心や不信感はなく、彼との会話に安心感を覚える。足を負傷した祖父のために鈴が杖を贈る資金が必要と分かると、鈴を自分の助手として雇う。久しぶりのコンビ結成で津軽は思わず照れの笑顔がこぼれる。今までの中で一番の笑顔かもしれない。そこから恋をする津軽が溢れる。その描写に読者の津軽派が増えたのではないか。


春時に胸が高鳴り春時を放っておけないと思いつつ津軽も気になりだし鈴の心は乱れる。春時にキスされて以降 初めて自分の心境を告げるために鈴は春時と会うが、その途中で眠気を催す。鈴の眠りを見届けた春時は鈴を安置して ひな と行動を共にする。同時に春時は いつぞやの遠峰の醜聞のリークのように秋山家の関係者しか知り得ない情報を新聞に掲載させるよう手配した、と津軽は考える。鈴が傷つく手段を取ったことに疑問を持っているところに春時が津軽の前に現れる。
この手法は間接的に鈴を守るためなら鈴に多少の苦痛があっても構わないという初期の春時のもの。春時には津軽の存在が邪魔。津軽は春時の「兄」という立場も自分の「となりの大人な お兄さん」も変わらないと指摘するが、春時は津軽が居る限り1番にはなれない。春時経由で渡された ひな からの手紙は、フランス行きと同じように津軽を呼び出す内容だった。
夢で春時と出会った鈴は起きると同時に彼が「兄」であることを思い出す。ただし津軽は欠落したまま。津軽の記憶には鈴側からのロックが掛かっている。
春時の帰りを待つ鈴の前に現れたのは津軽。津軽は鈴が春時のことを「兄」だと思い出したことを知らないまま ひな と自分との接触に鈴を連れていく。これは黙ってフランスに行った時との違い。元カノに会いに行く時は誠実に、鈴を連れて、というのが今の津軽の真摯な態度なのだろう。そして今度は ちゃんと自分が誰を好きか照れながらも伝えている。
『2巻』で津軽の足取りを追った時のように、今度は春時に会うために宿泊しながら北に進む。この旅程の中で津軽は ひな の過去と現状を包み隠さず話す。そして昔のように自然に語らい合いながら今の鈴も津軽のことを好きになっていく。
ひな は愛染と日本の製鉄業を利用した日本の破壊と再生を目論んでいた。やはり愛染=アイゼン(鉄)なのだ。愛染は個人的な名声のために秋山を踏み台にしようとして早まった。でも ひな は自分の死後の事業のためという大局で動いている。
けれど病に侵された ひな には時間がなく国の動きは見届けられない。それならば個人の悲しみの中に自分が生きた痕跡を残そうとし、自分のために死ぬ誰かを望んでいた。それは津軽のはずだったが、津軽が鈴を連れてきたため、ひな は春時に鈴と生きるために津軽を殺すか、鈴を永遠にするために彼女を殺すかの二択を与える。これも遠峰も同じようなことしてたなぁ。だが春時が消したいのは自分の過去。だから春時は自分を罰する…。
