《漫画》宇宙へポーイ!《小説》

少女漫画と小説の感想ブログです

今はまだ「ありがとう」としか言えない この湧き上がる感情に、いつか私が名前をつける。

サクラ、サク。 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)
咲坂 伊緒(さきさか いお)
サクラ、サク。
第01巻評価:★★★★☆(9点)
 総合評価:★★★★(8点)
 

目立たず、いてもいなくても変わらない存在だった藤ヶ谷咲(ふじがや さく)。咲は、ある日電車で「桜」という名前の人に助けられたことをきっかけに、自分も困っている人をほっておかないと心に決める。時は流れ、入学した高校で「桜」と呼ばれる男の子に出会って…!? ピュアで、切ない恋のつぼみが今、開きはじめる――!

簡潔完結感想文

  • 貴方の名前を知った時から、私は自分の存在を、生き方を大事にしようと決めた。
  • 目に見える形で親切なヒロインと、目立たぬ形で気を回すヒーローの優しさ合戦。
  • 徳を積んだから開けた神への道。だが神は存在せず、彼は ただのイケメンだお。

しさ と 偽善、切なさ と こじらせ は紙一重、の1巻。

マクロの視点では私は この作品が好きである。 しかし、
ミクロの視点では私は この作品が苦手である。

というのが正直な感想。良くも悪くも咲坂作品らしさが全開で、その特性がよく出ている。

まず、マクロの視点で見ると本書は本当によく考えられていると思う。
大雑把に言うと本書には徹底して以下の4つのルールが適応されている。

①「ペイフォワード」的な善意の連鎖
② 予想外の方向から到来する好意
③「恋か恋じゃないかは自分が決める」
④ 好きな人が、誰を好きかを分かってしまう

これらが ほとんどの登場人物に適応されていて、相関図を作ったら矢印が飛び交い、相当 入り組んだものになる。そして この飛び交う矢印の多さこそ本書の魅力で、そして作者は その矢印という感情を一つ一つ丁寧に表現し、そして処理している。だから そこに清々しさが生まれ、読後、誰もが頑張って恋をしたことを嬉しく思う。もちろん全ての恋が叶う訳ではない。だけど本書における告白は、過去の自分を乗り越えた末の成長の証であるから、その行為自体が祝福されるものだと思えるのだ。

については『1巻』でも詳しく描かれていて、1人の善意が世界を変えていくような壮大なバタフライエフェクトを感じることが出来た。
は誰もが斜めから到来する自分の好意に驚いているように思う。『1巻』ではヒロイン・咲(さく)が それを痛感するまでを描いており、その後も何度も登場人物たちは自分の胸に到来する恋心に戸惑い、悩む。
は②に関連しており、唐突だからこそ彼らは自分の恋心が果たして真正なものなのか戸惑い、悩む。恋が結ばれる場面もいいが、誰かを好きになった時のエネルギーの大きさはビッグバンにも相当し宇宙を世界を再構築していく気がする。
だけは登場人物全員に適応されるルールではないか。恋の誕生のエネルギーは大きいが、失恋を予感した時の負のエネルギーも極めて大きい。人によっては魔女になるぐらいの絶望であろう。恋心を秘したまま接して、相手の言動に一喜一憂する。でも その過程で好きな人の好きな人が誰かを知ってしまっている状況となり、相手に受け入れられない自分の現実を痛感してしまう。

心優しい「神様」は世界の端っこの咲にも平等に慈愛を届ける。そこに咲の自尊心が生まれる。

この4つのルールを登場人物のほとんどに(終盤に登場するキャラにまで)適用するのは 相当な構成力と集中力が必要で、それを やってのけるから私は咲坂さんを好きだなぁと思う。一部の人には悲しみは残るけれど、そこに悔いはないはず。そのカタルシスが作品の清々しさと青春の匂いを醸し出す。主役2人だけではなく、どのキャラにも背景と愛を惜しみなく注いでいるのも良かった。複数の人間を同時に動かせることは咲坂さんの聡明さを表すものだと思う。
だから私は総合的に本書が好きである。


だし悪い方の意見を書かせてもらうと、読書中(特に中盤以降)は ずっと ひねくれ渡さん・アルコさん の『消えた初恋』の あっくん の言葉が離れなかった。それぐらい登場人物たちがウジウジと告白しない理由を探していたように見えたのだ。

『消えた初恋』2巻より。本質に触れて、自分でも思いもよらぬ人を好きになる共通点あり。

「まーだ あいつグズグズ言ってんの? しょーもなー」
「さっさと本当のこと言やぁ よかっただけの話じゃん」
「言いだしづらいことも あるかもしんないけど 相手の反応 気にして言えないとか言い訳だからね」
「結局 自分が傷つきたくないだけじゃん」

おっしゃる通りで――。ぐうの音も出ないとは まさにこのことではないか。もし あっくん が本書の世界に転生して来たら、主人公たちに こう言ってくれて、さっさと問題が解決したような気がする。そして そう言いたくもなる。

しかし この しち面倒くささが咲坂作品の魅力で、作者が描きたい部分だと私は思う。
少しばかり咲坂論を語らせていただくと、前作『思い、思われ、ふり、ふられ』も過去作『アオハライド』も どれだけ恋愛成就を遠ざけるかに力点が置かれていたように思う。例外的に『ストロボ・エッジ』だけはヒロインの告白が早く、思わず走り出したくなる恋のパワーを感じたが、これは連載の形態が違ったからだろう。『ストロボ』は当初 短期連載予定で、その途中から連載が好評で長編化した作品(と どこかで読んだ)。だから作者は当初の短期連載の予定通り、ヒロインが告白する場面までを一気に描き、そこからの延長戦を長編として描いた。だから咲坂作品に珍しく告白が早いが、物語が進むにつれて「告白しない/できない理由」を探すような咲坂作品らしい展開が待ち受けていたのではないか。

このように咲坂さんは一貫して恋愛成就までのヒリヒリとした痛みや切なさを大切にしている。
ただ今回は話をズルズルと先延ばしにしている印象は否めない。『1巻』では神に恋していたヒロインがラスト、その恋心の対象が実は亡霊であることに気づく。そこを面白いと思ったが、最終盤になっても彼女は違う種類の亡霊と戦っていて辟易とした。見えないものと戦い、悪魔の証明のように、証明の難しいことを証明させようとする という堂々巡りが始まっていた。それもこれも咲坂さんが目指す完全な恋愛成就のためなのは分かるのだが、重箱の隅を突いている感覚が消えなかった。だからこそ冒頭の あっくん の言葉が連想されてしまうのである。


れまでの咲坂作品(青春三部作)では、親の事情(主に離婚)に巻き込まれる子供が描かれていたが、今回は その要素は一切ない。大きなトラウマや子供がどうしようもない事情が描かれることはなく、全て高校生の彼らが自分たちが直面し、そして解決していく物語に なっている。これによって作品に人生の無力感や不幸が排除され、より等身大の、過度なドラマ性に頼らない高校生の悩みが描かれたのではないだろうか。そこが作者の新しい挑戦のように思う。
過去作同様に登場人物たちの容姿への言及がないのも共通点か。少女漫画として画面の美しさを重視する部分はあるが、それは登場人物たちの恋心に一切 関与していない。彼らの ほとんどは相手がどんな外見であっても恋に落ちていたはずである。ヒーローの容姿を称賛するような場面がないのは、ルッキズムと言う言葉が浸透した2020年前後からの少女漫画の新たな風潮だろうか(咲坂作品では容姿や人気を周囲の女性に語らせているのは『ストロボ』ぐらいだけど)。

ただ外見において気になるのが、陽希が前作『ふりふら』の和臣(かずおみ)に外見が似ているということ。この外見は陽希の性格にピッタリ合っていると思うが、どうしても前作に引きずられてしまう。しかも和臣も2人兄弟で兄がいる弟という設定も同じ。更にややこしいのは陽希の兄・亮介(りょうすけ)は『ふりふら』にも登場した人物で、Wヒロインの1人・朱里(あかり)を巡って和臣と争った仲であるから、まるで この桜兄弟がライバル関係にあるように見えてしまった(間接的なライバルにはなるが)。


頭の「プロローグ 『私に名前がついた日』」は中学生だったヒロイン・藤ヶ谷 咲(ふじがや さく)が生まれ変わった1日を描く。その日咲は電車内で貧血を起こす。その気持ち悪さと戦っている時、車内の窓が開けられ 風が咲の苦痛が和らぐ。しかし降車する際、乗車する客に揉まれ、祖母のハンドメイドの大切なカバンを車内に引きずり込まれてしまう。その失意と体調不良で咲は倒れてしまうが、駅の救護室で目を覚ました時にはカバンは駅に届いていた。

駅員から届け主が、体調不良の咲のことを心配していたと聞かされる。2つの親切が同一の人物であることが分かり、咲は この世界に そんなに優しい人がいることに感動する。それは人生を変えるような出会いと感情で、連絡先が控えられた紙を咲は宝物のように胸に抱く。
その瞬間から咲もまた人に親切にしてあげられる人になろうと決めた。親切とは、自分の感情が動いた行為だから、そこに羞恥や外聞は必要ない。「いい子ちゃん」と思われ、時には言われても、それが自分の称号のように思う。「やらない善より する偽善」の精神だろう。

そして高校に入学した彼女は そこで運命と出会う…。


校の入学式、咲は桜(さくら)という名字の男子生徒を見つける。そして友人との会話から桜には亮介という兄がいることを確かめ、胸が高鳴る。

同級生の名は桜 陽希(さくら はるき)。彼には2つ年上の兄がいることを確かめた咲は、後日、放課後に陽希に声をかける。それは亮介とのコネのためだった。「桜 亮介」こそ中学生の咲を助けた届け主で、その後 連絡が繋がることはなかった大切な人の名前だった。
咲は手紙を差し出し、陽希に仲介を頼むが彼は拒絶して帰ってしまう。だが今の咲には届け主・桜 亮介 との繋がりは陽希しかいない。そこから咲は猛アタックをするように陽希につきまとう。陽希は亮介目当てで自分に近づく女性には慣れているが、その中でも咲は群を抜いて しつこい。だが そんな関係は2人に交流を生み、それぞれの人となりを理解することになる。

一瞬 期待しちゃうような純情さ や 不機嫌を隠さない陽希の姿に15歳の思春期らしさを感じる。

もはやストーカーと化している咲は、大柄な男性に絡まれている陽希を発見し、彼を救出しようと果敢に立ち向かう。だが それは誤解で男性2人は幼なじみという間柄だった。私は当初 その大柄の男性・大翔(だいと)は絶対に咲を好きになっちゃう人だと思っていた。むしろ名前のついているキャラで唯一と言っていいほど恋愛に絡まないキャラだった。作者のことだから大ちゃん にも秘めた想いを用意しているのかもしれない。きちんと読めば 読み取れるのかな。
ここで大ちゃんが登場するのは咲に、優秀で目立つ兄がいる陽希のコンプレックスを伝えるためだろう。そして この時に陽希が席を外す自然な流れとその理由を用意しているのが作者の巧みな部分である。大ちゃん は これまで陽希が便利に使われ、そして人権を無視されてきた悲しみを咲に教える。それは咲が想像できていなかった部分だった。

大ちゃんは陽希は「めっちゃいい奴」と評価するが、戻ってきた陽希は それを過大評価と訂正する。しかし陽希の優しさを垣間見て、咲は それが過大な評価であるとは思わない。だから咲は陽希に迷惑をかけてまで便利に使うのではなく自力での解決を考え始める。ここで自力で動こうとした実績があるから、咲は読者から応援される部分だろう。


の後、咲が起こした親切が彼女の未来を拓く。
この日、咲はクラスメイトの探し物を手伝っていた。長時間 捜索しても見つからない彼氏から贈られた品を諦めかけようとする彼女だが、咲は作業を続ける。その際、下校する陽希と目が合い、彼は咲の「親切」が発揮されていることに気づくが、一度はスルーする。しかし戻ってきて協力してしまうのが陽希という人間の善良性を表している。そして陽希の助言により、捜索範囲=視界が広がったことで探し物は 何とか見つかる。この際、咲は人助けのために再び怪我を負うところだったが、陽希がそれを救出する。ヒーロー行動をしたことで陽希とのフラグが立ったとも言えよう。連続して陽希の優しさに触れた咲も、亮介の弟の彼ではなく、彼本人に対して向き合うことになる。その後の陽希の心変わりは咲から自分に向けられる視線の違いを陽希は敏感に悟ったのかもしれない。

咲は改めて彼に対し、自分にとって亮介がどれだけ特別かを話し、彼の存在が自分の生き方まで変革させたことを伝える。自分を この世界に誕生させてくれたような、そんな感動を亮介に伝えたい。その咲の本物の気持ちに触れたから、陽希は頑なだった態度を変える。

この日に出会ったクラスメイト男女各2人、咲と陽希、そして荻原 琴乃(おぎわら ことの)と佐野 美斗士(さの みとし)の4人が親友となっていく。恋の始まりと友情の始まりを一気に描いている点が本当に上手い。

咲坂さんは恋愛だけじゃなく、基本的に人と人が距離を縮める様子を描くのが上手い。好き☆

の日、自分を二度も助けてくれた「桜亮介」は咲の中で彼は「神様」になった。
そして連絡がつかなかった彼の手掛かりを求めていると塾の友達が彼の名を知っており、彼の通う高校の文化祭で神の御姿を拝見することになる。だが彼の姿に神々しさは感じたものの、声をかけられなかったという神との最接近が中学3年生の思い出である。

そんな経緯を咲は すっかり友達になった琴乃に話す。勇気の出なかった自分の不甲斐なさを後悔しつつ、倫理的にアウトな住所を調査するなどはしなかった。合法的に亮介と接触できるのは おそらく半年後の次回の彼の通う学校の文化祭だと思っていたが、この4月に神の弟である陽希に出会った。だから神に迷惑に掛からない範囲で亮介とのコネ作りに邁進していたのだが、陽希に迷惑は掛かっていることは否定できないけれど。本人曰く 必死だったから、らしいが。

考えてみれば咲は亮介の高校名は知っているのだから、彼と同じ学校に進学は可能だっただろう(男子校ではないのは確認できる)。ただ それをしなかったのは、やはり倫理的ブレーキが働いたからなのか、もしくは単純に学力の問題かもしれない。その場合、どちらの学校の方が難関校なのだろうか。陽希と亮介を見る限り、亮介の方が優秀だから陽希は比較が苦痛に思えるのだろうから、亮介の学校の方かな。もしかしたら咲も陽希も亮介の学校を意図的に避けたから同じ学校になれたのかもしれない。この運命を仕組んだのだから やはり神は偉大な存在なのかもしれない。

一方で陽希は自分の意思で咲と亮介の仲介をすることを決定したが、2週間が経過した咲に返事が出来ていない。それは亮介が色よい返事をしてくれないからだった。陽希としては咲が これまでのような浮ついた気持ちではないことが分かっているが、それは亮介の与り知らないところ。亮介からすれば これまでと何も変わらない女性からの接触の一つでしかない。ただし陽希と亮介の兄弟仲は悪くなく、陽希は誤解されがちな言動をする亮介の本質が優しくて格好いいと思っている。

琴乃の協力で咲に事の進展を訪ねられた陽希は口ごもる。だが事情を察した美斗士が陽希に代わって亮介の反応が渋いことを告げる。この場面、友人となった2人が それぞれに聞きにくい/言いにくいこと を言っているのが良い。この2週間で彼らの仲は それぞれに深まったことが分かるし、直接的な言動をしない咲と陽希には慎みや配慮が滲み出ている。
咲の落胆を見て、陽希は自分が咲の長所をプレゼンし切れていないと責任を被る。その心遣いを見て皆は陽希に対して優しい認定するのだが、陽希は照れてしまって それを否定する。陽希からすれば優しさを体現しているのは亮介だからだろうか。


れでも しっかり優しい陽希は改めて兄に対してプレゼンをして、彼の了解を得る。

陽希は朝一番に咲に そのことを報告する。ただし亮介は、この日の自分のバイト前の時間だけというタイムリミットを設けていた。これは初対面の女性の話が面倒くさいことになっても切り上げられるようにだろう。突然の神との対話だったが、咲の準備は万端。最新版の神への手紙を持ち歩いていた。

この日、琴乃は緊張で爆発しそうな咲に付き合いたかったが、彼女の束縛きつめの恋人が それを許さず、咲は単独で待ち合わせ場所に向かう。琴乃は陽希に自分の代わりに同行を求めるが、陽希は拒否。けれど放課後、緊張で心細くなっている咲の前に陽希は理由をつけて現れる。そういうところが優しいんだぞ!と胸がいっぱいになるシーンである。

しかし待ち合わせの公園で咲は一歩も動けなくなる。特に咲の感情は好意を越えた畏怖のようなものだから尚更だろう。そんな咲の様子を見て陽希は、これまで自分に亮介との接点を頼んできた女性たちが それぞれ一生懸命だったことに気づかされる。それでも その恐怖心、陽希の審査、亮介の了解の全てを乗り越えたのは咲1人だけ。それを可能としたのは咲の善良さ。自分を認めてくれた陽希に咲は嬉しさのあまり鼓動が高鳴る。そして この咲の善良さは あの日「桜亮介」から貰ったもので、そこで生き方が変わった咲だから、こうして亮介のもとに辿り着けた。この循環が素晴らしい。
陽希の言葉に背中を押され、咲は亮介のもとに歩き出す。


は初めて言葉を交わす亮介に自己紹介をし、これまでの接点と、自分の中で育った気持ちをしたためた手紙を渡す。亮介は神様であり、そして その姿を見た時から憧れの異性になった。そのことを伝えるのに必死で咲は自分が告白めいたことをしていることに気づかなかった。

冷静な亮介は自分たちの最初の接点について聞き出すが、咲の言うことは亮介の記憶にはない。つまりは別人で同姓同名の人だと彼は結論づける。これは亮介が咲を間接的に断るための嘘ではなく、本当に身に覚えがない。だから亮介は差し出された手紙を咲に返却する。自分への感謝や好意は全て宛先が違うのだから。

咲は 当然この事態に困惑する。自分の感情が全て宙ぶらりんになってしまったのだから。そして すぐに亮介に手間を取らせたこと、陽希を巻き込んだことに申し訳なさを感じる。ここで すぐに自分の事情ではなく周囲の迷惑に頭が回る点が咲の本質的な美しさだと思う。
すぐに亮介に全てを忘れて大丈夫、と告げるのも彼の負担を考えてのことだろう。それでも咲は亮介と別れた後に茫然自失とする。ただ それほど心身が弱っておらず意外に大丈夫な予感も覚える。この時に空の明るさの変化で時間経過を表現しているのが、咲坂さんの詩的な部分だと思う。スマホで時間を確認したら この情緒は生まれない。

自力で茫然自失から立ち上がった咲だったが、自分を待っていてくれた陽希の姿を認めた瞬間、涙が止まらない。この感情のスイッチの入り方は よく分かる気がする。自分一人で泣くのは意外とハードルが高く、誰かの姿や相手の言葉があって初めて泣いてしまう。


希に敬意を報告しながら、咲は自分の感情を整理する。
神だと思った人は、実在する男性でもあった。その人に恋をしている自分を自覚していたのに、まさかの人違い。自分は神ではなく亡霊に恋をしていた。そんな分析をする咲に、陽希は直接 感謝は伝えられなくても、咲の人生を変えた人ならば、人に優しくしようと心掛ける咲の生き方 そのものが その人に対する感謝になるのではないか、と言う。それがまた別の誰かに伝わっていけば、その人の影響が世界に伝わる。

そんな陽希の優しさに、彼も亮介と同じぐらいモテるはず、と咲は思う。だが陽希はモテた事ないと言う。一度も。優しさで飯が食える訳でもなく、愛が与えられる訳でもない。陽希は その厳しい現実を目の当たりにしているから 少し こじらせているように見える。だが咲にとって優しさは最重要なポイント。それは「桜亮介」と同じぐらい、陽希を好ましく思うポイントになり得るだろう。

陽希が 茫然自失として まだ公園に残る咲の前に現れたのは、亮介から連絡が来たから。亮介はちゃんと咲の心に空いた穴の大きさを類推しており、バイトのある自分の代わりに弟に咲のフォローを頼んだ。それもまた亮介の持つ優しさである。だから今度は神ではなく亮介を好きになることも可能だと陽希は咲に教える。

でも、でも今の咲には世界で一番 優しく思えるのは陽希なのである。そんな思わぬ方向から到来する想い、という本書の1つのテーマが提示されて『1巻』は終わる。咲が陽希に感じる「ありがとう」に託すしかない感情は、かつて咲が「桜亮介」に抱いた感情である。つまり神の権利は委譲されたと言えよう。
だから これからの恋愛模様に読者のドキドキも止まらない、そんな素晴らしい内容だった。そして優しさの連鎖が作品の中から現実世界に伝播していくように思えた。本書から受けた清々しさが、きっと私に誰かに対して親切に出来る心の余裕を生むような気がする。