- 作者: 貫井徳郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2003/01/24
- メディア: 文庫
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小学校の女性教師が自宅で死体となって発見された。傍らには彼女の命を奪ったアンティーク時計が。事故の線も考えられたが、状況は殺人を物語っていた。ガラス切りを使って外された窓の鍵、睡眠薬が混入された箱詰めのチョコレート。彼女の同僚が容疑者として浮かび上がり、事件は容易に解決を迎えるかと思われたが…『慟哭』の作者が本格ミステリの極限に挑んだ衝撃の問題作。
本書のような形式の前例となった作品、バークリーの『毒入りチョコレート事件』すら未読の私がアドバイスするのも僭越だけれど、ミステリにおいて「問題作」は間違いなく「問題作」である、という事に留意して読んでいただきたい。出版社のあらすじ紹介に「問題作」とある場合は、ある一定の覚悟や寛容の心を以って読み、間違っても読了後、本を壁に投げつけたり憤怒で心を満たしてはいけませんよ、という出版社からの「予めご了承下さい」と同義だと思おう。私の読書経験では殊能将之さんの『黒い仏(感想文なし)』がそれだった。本書は『黒い仏』ほどではないけれど、ミステリを読むことで得られるカタルシスは(あまり)感じられない構成になっている。それを丸投げと考えるか、作者からの考えろ、考えろ読者というメッセージと取るか、それにより作品の評価は分かれる。
私はというと、ページをめくり「あとがき」の文字を見るにあたって、小説の完結をようやく認識し、けれど前のめりになっていた気持ちが追いつかず、そおまま倒れて、その後状況が把握できるまで呆気に取られていた。数分後に、あぁそういう作品なのね、と「問題作」の意味については呑み込む事が出来た次第。もともと読書時に自分の思考を放棄している私は、最後に提示される推理が、一番後味の悪い結論でいいじゃないかと、結末における衝撃度という価値観で見た時にミステリ読者にとっての自分の最善の結末に飛びついてしまった。こう考えると、ミステリ好きの属性が細分化される、「プリズム」のような作品である(ドヤッ!)。確かに私は推理部分で眠気を催すような意外な真相重視の読み手であるという自覚があります。
けれど私の中の本書の評価がとても低いかというとそうでもない。本書の4つのシーンの各題と同じく各シーンの語り手がリレー形式で容疑者のバトンを渡される様子はとても考え尽くされた構成である。更には4人の登場人物が一応の結論として提示する犯人は、次のシーンの語り手によって犯人である可能性を否定されている(自己申告だが)。この、4人の人物が誰もが犯人であり、そして誰もが犯人ではない、という相互矛盾はとても良くできた命題(?)だ。1つの事件に対する4つの平行する均等に分かれたその可能性、それを浮かび上がらせただけで本書を読む価値があった。ただ、推理ではなく本書のその後を想像するに当たっては、とてもギスギスした人間模様が展開される事が予想される。いやいや被害者は困った女性(ひと)だ。もう会いそうにない人はともかく毎日の様に顔を合わせながら疑惑だけが膨らむ。特にあの家庭は三者三様に崩壊するのではないかと心配である。彼らの為にも作者は結末を用意するべきだった。なんだか多方面で「問題作」なのですね。
本書のような人の多面性を表す場合のモデルとなる人物は圧倒的に女性の場合が多いように思う。男性はやはり単純なのだろうか。本書に登場する男性陣も多面性がなくはない。少年は生徒であり探偵であるし、先生なのに幼稚で欲望を抱えるもので、医者で美男なのに下僕であったり、夫で父親なのに倫理に反したりする。しかし彼らは自分の周囲の者たち(同僚や恋人・警察)に自分の多面性を見せてしまったり、勘付かれたりしている(4人目の男は流石に賢そうだが)。にしても南条先生はどこでも嫌われ者で、ミステリとしても話をややこしくさせた厄介な人間である。変な話だが、彼らには本書の被害者になる器ではないだろう。事件という光が被害者女性というプリズムにより4つに分散されたようにはいかない。彼らは事件をただ透過するだけだ。目の前の人に応じて完璧に自分を演じる女優魂、それがプリズムの正体だろうか。本書は1つの流れではなく、1つの装置として読むと良いのかもしれない。事件の概要は推理を幾つも通さなければならないため、目の大きいふるいの様になっているのは仕方のないことである。