- 作者: 樋口有介
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2006/07/22
- メディア: 文庫
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元刑事でフリーライターの柚木草平は、雑誌への寄稿の傍ら事件調査も行なう私立探偵。今回もち込まれたのは、女子大生轢き逃げ事件。車種も年式も判明したのに、車も犯人も発見されていないという。被害者の姉の依頼で調査を始めたところ、話を聞いた被害者の同級生が殺害される。私生活でも調査でも、出会う女性は美女ばかりで、事件とともに柚木を悩ませる。人気シリーズ第一弾。
彼はたぶん不興を誘う(語感重視)。初対面の時の彼の印象はそれはそれは最悪だった。創元推理文庫らしい硬派なミステリを想像していた私の目の前に現れたのは軟派を絵に描いたような男だった。初対面の印象が悪い人は、その後その人が特大の逆転ホームランを打たない限りその印象は覆らない。私は待とうと思った、彼の逆転ホームランを。けれど待てなかった。彼の洒落たつもりの言い回しにいちいち眉をしかめていたら、こちらの身が持たなかったのだ。お別れである。50ページという短いお付き合いであった。それが数年前のお話。しかしそれからも彼は、私の頭の中に、私に読書を挫折させた男として異常な存在感を持って居座り続けていた。だから再会に際して、彼のその独特なノリと、広義のハードボイルドと広義のミステリの2つの性質を併せ持つ作品に柔軟性をもって対応しようと心の準備を怠らなかった。もう一度、彼に会いたくなった時点で私の負けかもしれない。
彼はたぶんフランス人を前世に持つ。おっと、その前にいい加減、彼の名前を公表しないと。彼の名前は柚木草平(38)、職業・フリーライター、家族構成・別居中の妻と娘、経歴・元刑事でその当時の年下の女性の上司と交際中。趣味・洗濯。で、前世はフランス人、のはずだ。女性にで会うとまず口説く、という日本人離れした習癖を持つのは前世の因果であろう。あれっ、口説くのはイタリア人男性だっけ? しかもなぜか彼の周囲は女性で溢れかえっている。上記の親しい人も女性だし(妻や恋人はまぁ当然だが)、本書では調査依頼された轢き逃げ事件の被害者が女子大生という事もあり、その女性の友人にも女性が多く、彼らに聞き込み調査をしながら、彼はたいはん食事に誘う。本書の半分以上は、女性との会話シーンだったのではないか。しかしそんな女性に弱い柚木という人物にも好感が持てるのは、彼が単なるドン・ファンではないからだろう。先の女性との会話シーンにおいても、確かにその半分は事件に関係ない私的な口説き文句が並べられているが、あとの半分は彼が女性から手厳しい意見を言われているのだ。これによって彼の高い鼻が折れて胸がすく思いがするという訳ではない、むしろ彼の自分の持ちようが見えてきた。
彼はたぶん色気を振りまく。解説の大矢さんも指摘しているが、彼の外見の描写はないに等しい。最近太り始めたぐらいだろうか。しかし洗濯が趣味で、頻繁にシャワーを浴びて(作中が夏だからもあろうが)、清潔感に溢れているのではないかと推察される。そこに上述のように先制攻撃を自分から仕掛けて、女性の気を引き、口を滑らかにさせたら、自分は専守防衛に徹して、ストレスのない精神上健全な関係を築き上げるのだ。自分に気がある話し易い男性、というのは外見がどうであれ女性の好みの人種ではないか。更に私が思う柚木さんの美点は、女性を決して悪く言わない点である。作中に溢れる美女、美女、美女。しかしそれは柚木の目を通した女性の姿であり、その色眼鏡を外した第三者視点での真実の姿は分からない。生来の女好きという資質もあるだろうが、基本的にジェントルマンなのだ。更には柚木の事が気になり始めた女性たちにも、柚木は自分の身の上を話さない、という態度が憂いがまた相乗効果を生むのだろう。
おっと、このままでは柚木評で感想文が終わってしまう。本書はハードボイルドなミステリだろうか。ハードボイルドというのは私の中で「一言多い男性主人公」と「探偵にとって皮肉な結末」という2本柱で構成されているものである(かなりの偏見)。一言多いのは柚木の女性への態度でクリアし、そして皮肉な結末は探偵・柚木にとって、という別の意味でクリアしていた。後味が良いとは言えないが、柚木の労力を思いを無駄にするような結末ではなくて一安心した。作品自体に大きな動きはないが、柚木の捜査によって、人物関係図が少しずつ変化し、頭の中で容疑者候補が次々と入れ替わる様に緊張感が保たれている。警察の捜査の杜撰さは気になるところだけれど。柚木に負けないぐらい、登場する女性たちそれぞれにが有能というのも本書の特徴で美点だと思う。
すっかり私も彼の人柄に魅了されてしまった。ということで、私はたぶん、いや絶対に再会を果たす。