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新世界 (角川文庫)

新世界 (角川文庫)

1945年8月、砂漠の町ロスアラモス。原爆を開発するために天才科学者が集められた町で、終戦を祝うパーティが盛大に催されていた。しかしその夜、一人の男が撲殺され死体として発見される。原爆の開発責任者、オッペンハイマーは、友人の科学者イザドア・ラビに事件の調査を依頼する。調査の果てにラビが覗き込んだ闇と狂気とは。ミステリー界最注目の気鋭の代表作、待望の文庫化。


1人の天才を中心に据え、彼の存在が全世界的なパラダイムシフトを、そしてその周辺に殺人事件をもたらすという著者お得意の歴史・有名人物ミステリ。本書は1945年の出来事で歴史というには新しい時代。そして天才人物にはアメリカの科学者でありロスアラモス国立研究所所長のオッペンハイマーが選ばれている。既読の作品とは一線を画す設定であり、無知な私は主役のオッペンハイマーの存在すら知らなかったが、「原爆の父」の二つ名を持つ彼は日本人にとって、世界にとって紛れもなく世界を一変させた人物だった。彼の出現はそれまでの世界と、それからの世界の何を変革したのか。その問いが小説の根幹を成す。
作品内で世界最初の原子爆弾実験、そしてヒロシマナガサキへの投下がその中心にあるが、舞台は被爆国の日本ではなく投下国のアメリカ。原爆投下の物理的・精神的衝撃波は到達していない場所。ましてや研究所の科学者たちは原爆の「成果」に欣喜雀躍している。最先端の頭脳の結集が愚かな戦争を停止させた、科学が世界平和をもたらす時代の到来に浮かれる彼らの間近に「死」が迫る…。
舞台は情報統制により陸の孤島と化した研究所。広義では密室状態の設定だが、殺人事件は不可能状況などの謎が乏しく魅力に欠ける。更には本書では事件は(意図的に)この1つきりで、気持ちばかりが急いてしまうという心境には程遠い。更には登場人物の特性を掴むのに苦労する序盤に話の時間軸が前後して読みにくかった。読了すればこの場所で、この事件が起こる必然性を理解できるが、読書中の興奮や物理的な謎解きがいまいちという印象ばかりが残った。
本書も柳作品らしい正気と狂気の世界が展開される。毎度同じような展開に辟易もするのだが、本書では狂気こそ人間性の証左という逆説的な論理が読み所。既刊作品にも通じる事だが、主役である1人の天才はパラダイムシフトの体現者であるが、1人の殺人者もまた時代・世界全体の「困惑」の体現者であると言えよう。例えば、今この瞬間に宇宙人が出現したら、タイムマシンが完成したらどうなるだろう。自身の根幹を揺るがす出来事に、人は皆、同じ明日を見られるだろうか。人類の心に断層が生じた時、地震のように事件は起こるのだ。
あの時、変革された「死」という概念に焦点を合わせたまま物語が終えるように、途中の挿話でオッペンハイマーの後日談が語られる構成は良かった。読了後に暫く目を閉じて思いを馳せる、そんな内容の本だった。

新世界しんせかい   読了日:2010年11月17日